コラム

世界で進む「糞便移植」が日本で普及していない理由

2022年11月22日(火)11時20分
糞便微生物移植

腸内環境を正す治療法として期待されつつ、他人の糞便を体内に入れることから心理的な障壁も報告される糞便微生物移植(FMT) Global News-YouTube

<健康な人の便を移植することで腸内環境の正常化が期待できる一方、思わぬ副作用を引き起こす可能性もある。肥満傾向がある提供者の便を移植したところ、太り始めたという例も>

オーストラリアの医薬品・医療機器の管轄機関にあたる保健省薬品・医薬品行政局(Therapeutic Goods Administration: TGA)が糞便(ふんべん)微生物移植(Fecal Microbiota Transplantation; FMT)を承認したと、イギリスのガーディアン紙が報じました。

FMTは腸内細菌叢移植とも呼ばれており、健康な人の便に含まれている腸内細菌を患者の腸内に移植することによって腸内環境の正常化を目指す治療法です。安倍晋三元首相が罹患していたことで知られる潰瘍性大腸炎などの治療に役立つとされています。

ガーディアン紙は「国家の規制当局が承認した世界初の事例」としていますが、オーストラリアで認可されたのは再発性クロストリジウム・ディフィシル感染症(Clostridium difficile infection; CDI)に対してのみで、これまでもアメリカで同疾患に対する糞便移植が規制当局の米食品医薬品局(FDA)に認可された事例があります。

と言っても、ニュースの価値が下落するわけではありません。米シンクタンクは糞便移植や糞便由来の治療薬の市場は2025年頃までにアメリカ国内だけで500億円規模になると予想しています。これに、アジアやヨーロッパを加えると1000億円規模になるとも見積もられています。オセアニア、とりわけイギリス連邦での初めての承認は、糞便を薬として扱う市場の世界的な拡大に拍車をかけると考えられます。

FMTは日本でも保険適用外(自由診療)で臨床応用が始まっており、「アイバンク」や「骨髄バンク」のような「便バンク」の整備も進んでいます。今後の有望分野である糞便の医療利用を概観してみましょう。

健康や病気発生に大きく関わる腸内細菌叢

ヒトの腸内には約千種類の細菌が生息し、その総数は百兆から数百兆個、重さにして1から2キロと言われています。これらの腸内細菌の全体を腸内細菌叢(腸内フローラ)と呼び、代謝を通じて細菌同士や宿主であるヒトと複雑なやり取りをすることで、ヒトの健康や病気の発生に大きく関わっていると考えられています。

善玉菌、悪玉菌という呼称や、腸内細菌の健康への影響は、一般ニュースにもよく取り上げられます。ヒトの腸は母親の胎内にいるときは無菌状態ですが、自然分娩では産道、帝王切開では母親の皮膚にいる菌に触れて、最初の腸内細菌となります。1960年頃までは腸内にいる細菌は大腸菌だけだと思われていましたが、その後、研究が進んで多種多様な細菌が集合体を作っていることが分かりました。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

中国外相、イラン指導者殺害や体制転換の扇動「容認で

ワールド

OPECプラス8カ国、4月に増産開始で合意 イラン

ワールド

イラン首都照準に2日目攻撃、トランプ氏は反撃に警告

ワールド

プーチン氏、ハメネイ師殺害は道徳規範と国際法に違反
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本人が知らない AI金融の最前線
特集:日本人が知らない AI金融の最前線
2026年3月 3日号(2/25発売)

フィンテックの進化と普及で、金融はもっと高速に、もっとカジュアルに

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    BTS復活...でも、韓国エンタメが「苦境」に陥っている
  • 2
    見事なカンフーを見せた中国ヒト型ロボットのからくりとリスク
  • 3
    「若い連中は私を知らない」...大ヒット映画音楽の作曲家が「惨めでもいいじゃないか」と語る理由
  • 4
    「本当にテイラー?」「メイクの力が大きい...」テイ…
  • 5
    ドバイの空港・ホテルに被害 イランが湾岸諸国に報…
  • 6
    【銘柄】「三菱重工業」の株価上昇はどこまで続く...…
  • 7
    【銘柄】「ファナック」は新時代の主役か...フィジカ…
  • 8
    米・イスラエルの「イラン攻撃」受け、航空各社が中…
  • 9
    「高市大勝」に中国人が見せた意外な反応
  • 10
    今度は「グリンダが主人公」...『ウィキッド』後編の…
  • 1
    アルコールは血糖値を下げる...「脳と血管を守る」医師がすすめる意外な健康習慣
  • 2
    見事なカンフーを見せた中国ヒト型ロボットのからくりとリスク
  • 3
    村瀬心椛は「トップでなければおかしい」...スノボの謎判定に「怒りの鉄拳」、木俣椋真の1980には「ぼやき」も
  • 4
    中国、4隻目の空母は原子力艦か──世界3番目の原子力…
  • 5
    少女買春に加え、国家機密の横流しまで...アンドルー…
  • 6
    BTS復活...でも、韓国エンタメが「苦境」に陥っている
  • 7
    米国の中国依存が低下、台湾からの輸入が上回る
  • 8
    中国で今まで発見されたことがないような恐竜の化石…
  • 9
    住宅の4~5割が空き家になる地域も......今後30年で…
  • 10
    「若い連中は私を知らない」...大ヒット映画音楽の作…
  • 1
    ウクライナ戦闘機「F-16」がロシア軍「シャヘド」を空中爆破...地上から撮影の「レア映像」を公開
  • 2
    高市積極財政にアメリカが慌てる理由
  • 3
    台湾侵攻「失敗」の大きすぎる代償
  • 4
    「最恐」恐竜T・レックスの定説を覆す新研究が
  • 5
    イースター島の先住民から資源を略奪、島を「生きた…
  • 6
    アルコールは血糖値を下げる...「脳と血管を守る」医…
  • 7
    「ヘル・コリア」から日本へ7万人 ── 大企業の高給より…
  • 8
    中国、パナマ運河の港湾喪失でパナマに報復──トラン…
  • 9
    命は長し、働け女たち――88歳「働くばあさん」が説く…
  • 10
    「罠に嵌められた」と主張するが...欧州で次々と摘発…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story