コラム

知床海難事故で注目の「飽和潜水」とは? 救助・捜索に不可欠な潜水法の仕組みと歴史

2022年05月24日(火)12時30分

また、潜水可能時間は、(タンク容積) ×(空気の圧力)÷(時間あたりの空気消費量)÷(最大水深の圧力)で計算されます。水圧は、陸上での1気圧に水深が10メートル増すたびに1気圧が足されます。水深が10メートルなら2気圧、50メートルならば6気圧なので、50メートルまで潜れば10メートルの時の3分の1の時間しか水中にいることはできません。

しかも、深くまで潜ったときほど、浮上時に血中に溶けていた窒素が気泡となって血管や臓器を傷つけたり詰まったりする「減圧症」のリスクが高まります。予防のためには浮上に時間をかけなければならず、深海での活動可能時間はさらに減ります。

過剰な窒素の入る余地をなくし、安全な潜水が可能に

知床半島沖事故の捜索で注目された「飽和潜水」は、人が深海の水圧下で身体をさらして活動するための技術です。

スクーバダイビングでは、一定以上の深さになると、タンクの高圧空気を呼吸し続けることで体内組織に通常以上に気体が溶け込み、中毒や減圧症を引き起こしました。

そこで、体内への気体の溶け込みは、ある一定量(飽和)を超えるとそれ以上は行われないという原理を利用して、あらかじめ体内にヘリウムなどの不活性ガスを飽和状態になるまで吸収させておく「飽和潜水」が考案されました。

この方法では、潜水時に体内に過剰な窒素が入る余地がほとんどなくなるので、水深100メートル以深でも安全に潜水できるようになります。

飽和潜水の手順は、まず潜水前に船上にある加圧タンクに入り、深海の高い圧力をかけた状態で一定期間を過ごします。次に、潜水用のカプセル(水中エレベーター)で加圧したまま降下し、目的の深さで潜水士は外に出ます。

深海の作業は、高圧だけでなく、低い水温にも耐えなければなりません。潜水士たちが着る特殊なスーツには、潜水カプセルからホースで温水が送り込まれ、体温や呼吸用の空気を暖めます。

19日の初回の飽和潜水では、1日かけて加圧状態にした2名の潜水士が1時間半にわたって沈没船の内外を調査しました。危険な作業ですが、ドアを開けるなどの動作は水中ドローンなどの機械では行えず、調査には人力が必要だったといいます。

作業が終わった潜水士は再び加圧タンクに入り、水深120メートルならば1週間ほどかけて少しずつ圧力を減らして、身体を元の状態に戻していきます。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、ウォルツ大統領補佐官解任し国連大使に指

ワールド

米との鉱物協定「真に対等」、ウクライナ早期批准=ゼ

ワールド

インド外相「カシミール襲撃犯に裁きを」、米国務長官

ワールド

トランプ氏、ウォルツ大統領補佐官を国連大使に指名
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ウクライナ戦争は終わらない──ロシアを動かす「100年…
  • 5
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 6
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 7
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 8
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 9
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 10
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story