コラム

知床海難事故で注目の「飽和潜水」とは? 救助・捜索に不可欠な潜水法の仕組みと歴史

2022年05月24日(火)12時30分

飽和潜水は、原理的には水深700メートル以上潜ることも可能と言われています。世界で最初の飽和潜水は1938年に行われ、開発は欧米の海軍が主導してきました。フランス海軍と仏マルセイユ開発会社が共同で実施したハイドラ計画では、1988年に6人のダイバーが水深534メートルの潜水に成功しました。1992年には陸上施設で、3人のダイバーが水深701メートル相当の加圧を受けました。

もっとも、現在は水深180メートル以上では、ダイバーがヘリウム/酸素混合ガスを呼吸している間に急速に加圧された場合、神経筋や脳の異常が現れる未解明の高圧神経症候群が生じる場合があることが知られています。

近年では、飽和潜水の深度への挑戦は鳴りを潜め、2000年ロシア海軍の原子力潜水艦「クルスク」事故(水深108メートル)、2001年の北朝鮮工作船の引き上げ(水深90メートル)などの比較的浅い深度での活動に用いられています。

日本でも導入が期待される次世代型大気圧潜水服

飽和潜水よりもさらに安全と考えられている「次世代潜水」が、大気圧潜水服による潜水です。身体を1気圧に保てる金属製の装甲服で覆い、推進装置もついている、いわば「コンパクトな1人用潜水艦」で、最大700メートルまでの深さに何時間も潜れます。減圧する必要がなく、飽和潜水で用いる呼吸用の混合ガスも使用しないため、窒素中毒、酸素中毒、減圧症、高圧神経症候群などの危険性はほとんどありません。

akane220524_kazuI2.jpg

大気圧潜水服を着用して訓練を行うアメリカ海軍(2005年) Public Domain

アメリカ海軍と加オーシャン・ワークス社の開発したADS2000は、潜水艦事故の救助に開発されたアルミニウム合金製の大気圧潜水服です。減圧症の心配がないため、水深600メートルに20分で降下して、6時間作業し、20分で浮上することができます。船上でダイバーを交代しての潜水服を引き継ぐことも容易です。アメリカ海軍では、乗員100名超の原子力潜水艦の事故に対応できる救難システムと位置づけています。

大気圧潜水服は、海外ではすでに商用利用されており、石油や天然ガスの採掘現場やパイプラインのメンテナンスで活躍しています。知床半島沖事故での飽和潜水士の活躍を見るにつけ、より安全な大気圧潜水服の日本の現場への早期導入が願われます。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

〔アングル〕イラン核施設攻撃、 原油高騰の可能性 

ワールド

米がイラン核施設攻撃、トランプ氏「和平に応じなけれ

ワールド

米のイラン攻撃「危険なエスカレーション」、国連事務

ワールド

米のイラン核施設攻撃、米議員の反応分かれる 憲法違
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:コメ高騰の真犯人
特集:コメ高騰の真犯人
2025年6月24日号(6/17発売)

なぜ米価は突然上がり、これからどうなるのか? コメ高騰の原因と「犯人」を探る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の「緊迫映像」
  • 2
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    イランとイスラエルの戦争、米国より中国の「ダメー…
  • 6
    【クイズ】次のうち、中国の資金援助を受けていない…
  • 7
    ジョージ王子が「王室流エチケット」を伝授する姿が…
  • 8
    中国人ジャーナリストが日本のホームレスを3年間取材…
  • 9
    イギリスを悩ます「安楽死」法の重さ
  • 10
    ブタと盲目のチワワに芽生えた「やさしい絆」にSNSが…
  • 1
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 2
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の「緊迫映像」
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 5
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 6
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
  • 7
    イタリアにある欧州最大の活火山が10年ぶりの大噴火.…
  • 8
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?.…
  • 9
    「アメリカにディズニー旅行」は夢のまた夢?...ディ…
  • 10
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊の瞬間を捉えた「恐怖の映像」に広がる波紋
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 5
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 6
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 7
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 8
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 9
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story