コラム

八ヶ岳山麓、諸星大二郎『暗黒神話』の地で縄文と諏訪信仰に触れる

2020年02月26日(水)15時00分

◆縄文文化色濃い諏訪の信仰空間

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旧立沢村を見下ろす馬頭観音の丘

林道を抜けると、旧稗之底村の住民の移住先の一つである旧立沢村の中心地に出た。村を見下ろす小高い丘の上に、馬頭観音などを祀った祠が並ぶ"聖域"があった。この諏訪地域には、馬頭観音が多い。インドの闘いの神・ヴィシュヌ神の化身をルーツとし、畜生道に落ちた人々を救済するとされる。前回の旅で見た韮崎の巨大な平和観音像は女性的で慈愛に満ちた姿をしていたが、同じ観音様でも、馬頭観音は憤怒の表情をたたえ、いかにも男性的。観音界の異端児である。ヴィシュヌ神の化身は人身馬頭・腕が6本ある異形だったが、日本に伝わって馬頭観音となると、頭の上に馬の頭の形をした冠をいただく人間的な姿に変化した。

隣の小淵沢が、戦国時代以前から今も続く「馬の町」であることからも伺えるように、八ヶ岳山麓の人々の暮らしはもともと馬との関わりが強かった。それも、時代を経て「動物救済」「旅行安全」などのご利益が加わった馬頭観音が多い理由であろう。一方、ヴィシュヌ神的な「闘いの神」、あるいは山の暮らしに密着した「狩猟の神」的な側面も、縄文時代から狩猟採集生活を受け継いできたこの地の馬頭観音には色濃かったのではないだろうか。

現代の日本人は、大陸から渡ってきた渡来系の弥生人の血を引く者がほとんどだとされるが、それ以前から日本列島に住んでいた縄文人とその文化が、我々の根源的なルーツである。八ヶ岳山麓と隣接地の諏訪湖周辺には無数の縄文遺跡がある。そして、諏訪の人々の心の拠り所である諏訪大社は、出雲大社と共に最も古い神社の一つであるとされ、その起源は神話の時代に遡る。その諏訪大社と諏訪地方各地にある大小の諏訪神社には、御柱(おんばしら)という、山から切り出した4本の丸太が神域に立っている。また、やはり縄文文化に起源がある民間信仰の「ミシャクジ(御社宮司)」も、諏訪地方を震源地とする。こちらは、巨石や道祖神などの「石」との関わりが深い。御柱も巨石も自然信仰の一つの形である。つまり、自然と共に生きた縄文人のプリミティブな世界観の名残りが色濃く見えるのが、諏訪という土地なのだ。

ちなみに、御柱を新しいものに更新するために巨木を山から曳いてきて立てるのが、天下の奇祭と言われる7年に1度の「御柱祭」である。最も太くて長い諏訪大社の御柱を急坂から落とす「木落し」が有名だが、諏訪大社以外の大小の諏訪神社の御柱も、同じように7年に1回立て替えられている。これらの各地域の御柱祭は「小宮祭」と呼ばれ、中には、白樺湖に浮かぶ社に向かって湖上を曳航されたり、霧ヶ峰高原最高峰の車山山頂(1,925m)へ曳航される御柱もある。

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富士見町で見かけた小さな社にも4本の御柱が立っていた

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御柱祭の「木落し」。縄文文化を受け継ぐ諏訪を象徴する奇祭だ(2016年撮影)

◆八ヶ岳は富士山より高かった?

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新興住宅地の背後に見えた赤岳

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ノコギリの歯のようなキザギザな山容が独特の横岳

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尖石付近まで来ると、八ヶ岳は優しい表情に変わった

冬の八ヶ岳は美しい。主峰・赤岳を中心に、冷たいクリアな空に真っ白な雪をかぶった八つの峰々が浮かぶ。富士見町を過ぎて原村を抜け、いよいよ僕が住む茅野市に入る。歩くスピードで眺めていても八つの峰の見え方は刻々と変わる。八ヶ岳は、実に表情豊かな山だ。

「八ヶ岳は本当は富士山よりも高かった」という伝説がある。ある時、富士山の女神(浅間神社)と八ヶ岳の男神(権現神社)が「どちらが高いか」と争うと、仲裁に入った阿弥陀如来が八ヶ岳の方が高いと判定した。富士山が悔しさの余り八ヶ岳の頭を太い棒で叩くと、頭が八つの峰に割れて富士山よりも低くなってしまった。それが、現在の硫黄岳、横岳、阿弥陀岳、赤岳、権現岳、旭岳、西岳、編笠山からなる八ヶ岳の姿であるーという。言われてみれば、八ヶ岳のなだらかな裾野から富士山のような円錐形に稜線を伸ばしていくと、富士山を優に超える威容が青空に浮かび上がる。

その広大でなだらかな裾野に広がる森林と草原を眺めていると、人が自然と共に暮らすのに最適な環境に思えてくる。裾野の底を流れる釜無川(富士川の上流部)に向かって幾筋もの沢が流れ、水も豊富だ。現代の八ヶ岳山麓は夏涼しく、冬はいささか寒いが、縄文時代前期は今より平均気温が2度ほど高かったというから、ちょうど良い気候だったのではないだろうか。縄文人はこのような大自然の懐にこそ、快適さを求めたに違いない。自然がない都会に集まる現代人とは、真逆の価値観である。

大規模な縄文集落があった尖石(とがりいし)遺跡の手前の森で、鹿の群れに出会った。このあたりでは野良猫より野生の鹿を見かけることの方が多いので、地元住民の僕にとっては珍しくはない。でも、自然の営みに身を委ねる彼らの姿を見ると、僕は「帰ってきた」と安心し、心が満たされる。それは単なる「家に帰ってきた」という感慨だけではないような気がする。日本人のルーツである"縄文の森"に帰ってきたという感慨も織り交ぜられているというと、考えすぎだろうか。

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尖石遺跡手前の森で出会った鹿の家族

プロフィール

内村コースケ

1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。外交官だった父の転勤で少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒業後、中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験。かねてから希望していたカメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「書けて撮れる」フォトジャーナリストとして、海外ニュース、帰国子女教育、地方移住、ペット・動物愛護問題などをテーマに執筆・撮影活動をしている。日本写真家協会(JPS)会員

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