最新記事

人物

恩師の評伝 服部龍二『高坂正堯』を読む

2019年8月8日(木)13時50分
戸部良一(防衛大学校名誉教授) ※アステイオン90より転載

高坂が、大学院生の研究指導よりも重視したのは、おそらく、ゼミ生を含む学部学生の教育だっただろう。それは大学教師として当然でもあるが、とくに高坂の場合には、社会における「実務家」の役割が大事であるという考えが強かったように思う。大学を巣立って実務家つまりビジネスマンや公務員、あるいは教師や法曹家となる学生たちに、政治や社会の重要課題についてどう考えるべきか、どう行動すべきかを理解させる。これこそ、高坂の本来の「使命」だった。

あるとき、高坂が次のように語ったのを記憶している。ボクの話を一番よく理解してくれるのは西陣のオッチャンたちやな、と。実社会で実事に従事しているからこそ、政治や社会の問題を的確に理解し、成熟した判断を下せる、という意味であったように思う。それは、福沢諭吉の言う「実学」に通じていた。

政治・社会との関わりについては、政府のブレーンとしての役割を果たしたことが特筆されよう。服部の評伝でも、この部分が白眉と言ってよい。『佐藤栄作日記』によって、高坂が佐藤政権のブレーンであったことはこれまでも知られていたが、服部は佐藤の秘書官・楠田実の資料を駆使して、高坂の役割の実体を明らかにしている。興味深いのは、沖縄復帰に関し、あくまでヴィジョンや政策の助言提供に徹した高坂と、佐藤の密使として行動し、アメリカ側との「密約」にも関わった若泉敬との対比である。ブレーンにも様々のタイプと役割があった。

安全保障に関する諮問委員会で、高坂は大平正芳内閣と中曽根康弘内閣のときに主導的な役割を果たした。だが、自由な議論を許容した大平と、自分が求める結論に導くため介入を厭わない中曽根との間には、ブレーンの使い方に大きな違いがあった。中曽根の介入と圧力に、高坂は苦悩したという。このあたりは、当時の関係者のオーラル・ヒストリーや資料に基づいて実証的な研究を重ねてきた服部ならではの描写と分析が存分に示されている。

それにしても、高坂は政権のブレーンとして働くことを、どう考えていたのだろうか。「御用学者」という批判は、「タレント教授」という中傷と同じく、歯牙にもかけなかっただろう。国際政治を研究対象とする者にとって、政府の対外政策に何らかの影響を及ぼし得る機会を与えられることは、それなりに魅力的だっただろうし、研究者としての社会的使命を果たすことにもつながると考えられただろう。

しかし、それが魅力的であるがゆえに、難しいのは、権力との距離の取り方である。はた目で見る限り、彼はうまく距離をとっているように見えた。過剰にコミットせず(権力の虜にならず)、適度の距離を保つ。どうしてそれができたのか、聞いてみたかった。聞いても答えてくれなかったかもしれない。答えようがなかったかもしれない。それは勘(センス)であって、説明できないものだろうから。高坂には、その勘があった。あるいは、彼の学問上の師の一人である猪木正道の権力との接し方を見て、そこから学んだのかもしれない。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

核保有国の軍拡で世界は新たな脅威の時代に、国際平和

ワールド

米政権、スペースXとの契約見直し トランプ・マスク

ワールド

インド機墜落事故、米当局が現地調査 遺体身元確認作

ビジネス

日経平均は反発で寄り付く、円安で買い優勢 前週末の
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 9
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 10
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 5
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 9
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中