韓国の埋もれた歴史「在日同胞留学生スパイ事件」が、いま掘り起こされる
中には、自らの渡韓前に留学生が逮捕されている噂を聞いていた者もいた。だがアイデンティティに悩んだ若者が、どんな場所であろうと自身のルーツを知りたいと思うのは当たり前のことだ。それは在日韓国人に限ったものではないし、誰かに咎められるものでもない。
しかし、彼らを待っていたのは決してありふれてはいない、朴鐘哲が受けたのと同様の凄惨な拷問だった。
例えば被害者の1人で京都出身の李宗樹(イ・ジョンス)さん(60)は、京都精華短期大学在学中の1980年に韓国に留学した。ずっと通名を使っていたが、日本人のふりをして生きる自分が息苦しくなっていった。大学に進学した頃「韓国社会を直接経験すれば韓国人として堂々といきてゆけるだろう」と、留学を決意したという。
留学中に同じ大学の在日同胞にデモについて聞かれ、「学生たちが「金日成万歳」と叫んでいるわけではないのに、警察がやたらと催涙弾を撃つのはあんまりではないか」と答えた。この学生の密告により、数カ月後に保安司令部に連行されたそうだ。
日本に住む縁戚が政権を批判する組織に所属していたことからスパイに仕立て上げられ、電気拷問や水拷問などが1週間から10日程度続けられた。ある時は両手の指に電極が巻かれ、通電された。痛みに耐えかねて嘘の自白をすると拷問が止んだため「いいなりになるほかなかった」と、同書で振り返っている。
李宗樹さん自身は同胞との交流を目的に韓学同(朴正煕の独裁政権に反対し、祖国の統一・民主化を求める学生団体)の集まりや、韓日閣僚会談反対デモに参加したことはあったものの、仲間と行動を共にしたに過ぎなかった。
もともと文学が好きで、韓国文学を学び、在日同胞に祖国の言葉と文字を教えたかった。そんな純粋な思いを抱えていた彼が韓国で得たものは、懲役10年の宣告と5年8カ月の矯導所(刑務所にあたる)での暮らしだった。
李宗樹さんに限らず拘束された在日韓国人の多くが拷問を受け、有罪判決を受けて矯導所に送り込まれている。満期出所した者、特赦により早期出所が叶った者などさまざまだが、青雲の志をへし折られ、その後の人生が変わってしまったことは共通している。
でっち上げに加担した、在日ヤクザ
在日韓国人政治犯には留学生だけではなく、学者や教授、技術者など社会人もいる。同書によると、1960年代から1980年代半ばまでの間に巻き込まれた在日韓国人の数は、正確な統計はないものの150人余りと推測されるという。1975年に「11.22事件」が起きたのはその3年前の7.4共同声明(韓国と北朝鮮が発表した南北対話に関する宣言)の結果、北から直接派遣されるスパイの数が目に見えて少なくなったことが影響していると、金孝淳氏は言う。