韓国の埋もれた歴史「在日同胞留学生スパイ事件」が、いま掘り起こされる
情報機関は日本を経由する「迂回浸透」の可能性に目を付けた。それで在日韓国人留学生のなかにスパイがうようよしているという前提のもと、留学生名簿のなかから的を絞って対象者を作り出しては、「作戦」に入っていった。在日韓国人留学生は、水槽に閉じ込められ吊り上げられるのを待つような存在に過ぎなかった。
そしてでっち上げを支えた人物は、日本側にもいた。金孝淳氏はその一人として、在日韓国人だった梁元錫(ヤン・ウォンソク)・柳川組初代組長の名を挙げている。
1923年に釜山で生まれ1930年に家族とともに日本にやってきた梁元組長は、戦後の混乱期を生き抜くために暴力団に身を置いた。1969年に柳川組を解散してからは日韓対決のプロレス興行などを手掛ける一方で、韓国の政治家との交友を温めていった。
同時に、反共を前提にしたアジアの連帯を目指す「亜細亜民族同盟」という団体を率いた。金大中が逮捕された際は「金大中の左翼及び容共活動経歴」などと書いた怪文書をばらまき、全斗煥については「正義のかたまりや」と評していたそうだ。そして渡韓した際は保安司令部に出入りして、情報交換をしていたという。
梁元錫とその手下は保安司令部の依頼を受けて「容疑者」となった留学生の家族関係、留学前の日本での大学生活や社会活動、総連系同胞との接触の有無などに関する情報を収集し報告した。時には独自に収集した対共関連容疑の情報を渡すこともあった。こうして提供された情報や資料は、スパイ容疑で裁判にかけられた留学生の有罪を立証する重要な証拠として利用された。
捕らえられた彼らに対し、韓国社会は冷淡だった。メディアは情報機関から次々と発表される内容をそのまま繰り返すにとどまり、現地での公判過程を取材した日本人記者の記録によると、裁判所で韓国メディアの姿を見ることはなかったそうだ。
彼らは獄中でも韓国の「民主人士」と切り離され、孤立していた。事件について本格的に聞き取り、まとめた書籍が韓国内で出版されたのは、これが初だという。
長らく振り返ることすらされてこなかったが、盧武鉉政権(2003~2008年)時に始まった独裁政権下の真相究明作業により再審が決定し、死刑判決や無期懲役を受けた者は2010年以降、続々と無罪を勝ち取っている。
しかし今も精神的・肉体的な傷を抱えている者は多い。無罪判決を受けた李宗樹さんも、両耳の聴力がひどく低下したそうだ。
歴史に「たら・れば」は禁物だが、もし彼らが無事に留学を終えていたら、日韓双方を肌で知る架け橋として、両国の関係改善に寄与したのではないか。それを思うと、国家が奪ったもののあまりの大きさに身がすくむ思いだ。