コラム

村上春樹氏のノーベル賞見送り、これで良かったという理由

2012年10月12日(金)11時30分

 下馬評では可能性大と言われていた、村上春樹氏のノーベル文学賞受賞ですが、結果的に今回の受賞は中国の莫言氏ということになり、村上氏の受賞は見送られました。残念とも思いますが、冷静に考えてみれば今回はこれで良かったのかもしれません。

 1つは、莫言氏にノーベル賞を授与するということの政治的な意味です。私は莫言氏の作品は同氏が原作・脚本を務めた映画『紅いコーリャン(紅高梁)』(張藝謀[チャン・イーモウ]監督)を通じて知っているだけで、小説そのものは読んでいないのですが、この映画を見れば同氏の政治的位置が「体制内批判者」だということは分かります。

 映画については大変に立派な作品ですが、その中でも「赤(紅)」という色の鮮烈な使い方が特徴的です。タイトルの真っ赤な文字から始まって、ヒロインの真紅の花嫁衣装、花嫁行列の輿の色、そのヒロインが次の夫となる男性と結ばれる際の紅い衣装、そしてコーリャンからできた酒の赤い色、更には戦争の悲惨の中で流される血の色という具合に、「赤」という色が全編を貫いているのです。

 では、その色の使い方からどうして「体制内批判者」だということが言えるのかというと、「赤(紅)」というのは本来は「中国共産党」の色であるわけです。ですが、映画の中ではそのことには全く触れていないのです。そうではなくて、女性の生命力の象徴、男女のエロスのエネルギー、大地の恵み、そして暴力の悲惨といった、もっと根源的な「何か」の象徴になっているわけです。

 内容自体は、抗日戦の様子であるとか、農民のエネルギーであるとか、中国の現体制にとっては問題のない中身であるわけですが、とにかく「赤い色」が共産党の象徴になって「いない」という表現に、ある種の「抵抗精神」があるという解釈が可能です。もっと言えば、体制側に対しては「共産党の紅い色を尊敬を込めて使っている」という説明をしておくこともできるわけで、そこにはソ連の弾圧下で表現に二重三重の意味を塗り込めたショスタコービッチの姿勢に通ずるものもあるように思います。

 後は、極めて象徴的な表現ではありますが、中国政府がタブー視している性的表現・暴力表現に関して、様々な工夫をして踏み込んでいるということも、「抵抗精神」の証拠と言えるでしょう。こうした演出に関しては、監督の張藝謀氏の手腕によるところ大であるのは勿論ですが、原作脚本の莫言氏の「位置」もそれと同じと考えることは可能と思います。

 莫言氏自身、作品における性的表現を問題視された経験もあるそうです。そもそも「莫言」というペンネームが、漢文調で読めば「言ウ莫(ナ)カレ」つまり「喋るな」という意味で、なかなか深い含蓄を感じます。

 ノーベル賞の審査委員の人々は、そうした「体制内批判者」というポジショニングを考慮してそこにエールを送ると同時に、中国社会に「ノーベル賞を通じた西側世界のカルチャーとの結びつき」を「切らすな」というメッセージを送り、更には「アジアの土着精神に根差した表現を評価」することで、同じく中国の人々の自尊心を刺激するという「三重の効果」を狙ったのだと思います。それは、中国が世界の中で孤立する危険性を見せているこの2012年の判断としては、恐らくプラスの効果の方が期待できるのではと思われます。

 村上氏は中国では大変に人気が高いのですが、日中の摩擦が加熱しているこの時期を選んで村上氏が受賞したとしても、例えば中国社会の中での村上春樹の「読まれ方」としても、あるいは中国のカルチャーと西側のカルチャーの関係としても、それほど幸福な結果にならなかったのかもしれません。

 よく考えれば村上文学というのは、そもそもの本質が「ノーベル賞」には馴染まないようにも思えます。若き日には日本の左右の政治的立場への「コミットメント」を拒否し、この世界全体への違和感に正直になることから「デタッチメント」という生き方を表現していったわけです。それは究極の個人主義、あるいは個という視点から見た小宇宙のような世界でした。この時点での村上文学というのは、国家的な栄誉とか世界的な権威などとは「無縁」であることに価値があったわけです。

 その後の同氏のスタイルは、オウム事件の被害者への共感から「正義へのコミットメント」という立場へ移動しつつあり、一方では「大衆社会の相互監視」的なものとの対決といった「新たなデタッチメント」を経験したり、その一方で「性的な刺激、老化への悲しみ」といった「身体性へのコミットメント」に傾いたり、揺れと過渡期の中にあるように思われます。

 村上文学の持っている、もう1つの問題は、そのような微妙な世界観とその変化というものが、各国のカルチャーとの化学反応によってバラエティに富む読まれ方をしている点です。例えば、相互監視社会への批判という視点は各国の政治状況の違いによって解釈に揺れがあるようですし、性的な表現への傾斜に関してもタブーの強い(例えばアメリカ)などでの読まれ方は日本とは異なります。

 多様な解釈を許すというのは質の高さの証明ですが、バラバラな読まれ方をしているということになると、世界的な価値ということではフォーカスしづらいということにもなるのかもしれません。そう考えると、村上春樹氏については、もう少し世界における「読まれ方の成熟」が進んでからの受賞ということで良かったのかもしれない、そんな風にも思われます。

 特に今年ということに関しては、村上氏が受賞したとして「日中対決に勝ったと言われる」とか「野田首相が電話で祝辞を言う」などという光景そのものが「村上春樹的世界」の180度対極にあるものであり、タイミング的に「見送り」ということになったのは、これはこれで良かったのではと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

北朝鮮の金与正氏、日米韓の軍事訓練けん制 対抗措置

ワールド

ネパール、暫定首相にカルキ元最高裁長官 来年3月総

ワールド

ルイジアナ州に州兵1000人派遣か、国防総省が計画

ワールド

中国軍、南シナ海巡りフィリピンけん制 日米比が合同
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 3
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人に共通する特徴とは?
  • 4
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 5
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 6
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【動画あり】火星に古代生命が存在していた!? NAS…
  • 9
    悪夢の光景、よりによって...眠る赤ちゃんの体を這う…
  • 10
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 1
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 7
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 8
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 9
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 6
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 7
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 8
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 9
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
  • 10
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story