コラム

アフガン乱射事件のその後

2012年03月21日(水)10時51分

 先週3月11日に発生したアフガニスタンのカンダハール近郊での、米兵による民間人16名の殺害事件ですが、厳秘とされていた容疑者の身元はアッサリと明らかとなりました。男の名前はロバート・ベイルズという38歳の陸軍2等軍曹、写真も公開されたのですが、戦闘服に身を固めつつ同僚と笑顔を交わしている表情には殺人鬼のイメージは全くありません。

 身元が明らかになったのと同時に、ベイルズ2等軍曹は既に米国本土のカンザス州に護送され、軍事法廷への起訴を待っている状態だと言われています。妻子は「安全確保」のために、依然としてワシントン州の基地内で「保護」されているそうです。

 さて、この事件ですが、とにかく軍内部の事件であり、民間の場合の警察や検察の情報公開、刑事司法手続きの透明性というようなことは望めません。ですが、既に弁護人が選任されており、ベイルズ容疑者の立場を代弁する発言を開始しています。

 現時点では、このベイルズ容疑者に対する処断の見通しは先が読めません。というのは、余りにも利害が錯綜しているからです。

 まず、アフガン政府とタリバンは容疑者のアフガンへの引渡しを強く要求しています。また、米軍として裁くにしてもアフガン領内でという要求もありました。ですが、これに関してはアメリカは応じないまま、容疑者のクウェート移送、更には米本土カンザスへの移送という急展開となっています。米=アフガン関係は非常に難しい局面となっています。

 身柄は米本土に移送されたのですが、今後の判決に関してはどうでしょう。事件直後から、パネッタ国防長官は「死刑も視野に」という発言を何度も繰り返しています。そうした話は何となくメディアを通じてアメリカの世論にも「死刑は不可避」というニュアンスで伝わってはいました。

 ですが、本土移送と同時に弁護人から様々な情報が公開され始めると、ニュアンスは微妙に変わってきています。このヘンリー・ブラウンという弁護人によれば、ベイルズ2等軍曹は9・11の直後に軍に志願しています。「愛国のために立ち上がった多くの志願兵」の1人だというのです。その後、イラクへの3回の派兵を通じて2度の負傷をし、更にはアフガンに派兵されています。

 ブラウン弁護人が強調しているのは、3月11日の事件の前日の出来事です。基地の近くで、米軍の小隊が地雷に接触するという事件があり、ベイルズ容疑者は戦友が足を吹き飛ばされるのを目撃したというのです。ちなみに、ベイルズ2等軍曹は初期のイラク派兵の際に、足を負傷しています。一部の報道によれば片足を切断しているという情報もあります。

 このベイルズ容疑者に関しては、事件直後にはTBI(外傷性脳損傷)の治療を受けていたという報道があり、それは2度目もしくは3度目のイラク派兵の際に乗っていた車両が、爆弾によって横転させられた際に受傷したものという解説もあります。この件に関しては、その後、TBIとPTSDの治療をダブルで受けていたという報道、更にはPTSDが主であったという報道にニュアンスが変化してきています。

 ここまでの情報を通じて、ブラウン弁護人が示唆しているのは「事件前日の地雷接触事件で、特に戦友が足を吹き飛ばされたシーンを目撃したことが、自身の片足切断に至る最初の受傷、また車両横転と爆風に晒された2度目の受傷と重なる中で、精神的に激しく動揺して事件に至った」という可能性と見ることができます。尚、カンザスで本人と接見した後の同弁護人の発言によれば、ベイルズ容疑者は薬物やアルコールの影響下にはなかった一方で、事件の記憶はショックで失われているそうです。

 こうした「新情報」を受けて、ベイルズ容疑者は「私達が追い詰めたようなものだ」というような論調も出始めています。(ボストン大学教授のステファン・プロセロ氏のCNN電子版への寄稿)その一方で、そもそも軍に志願する前の経歴に関する暴露記事など、ベイルズ容疑者の資質を疑問視する動きもあります。

 例えば、19日から20日に一斉に報じられたところでは、2001年に軍に志願する前のベイルズ容疑者は、フロリダ州で投資顧問会社のようなことをやっていて、年金資産の株式による運用などをしていたらしいのです。ですが、その中で顧客の口座から資金を不正に引き出し、1億円以上の弁済命令を受けながら履行していないというのです。この報道内容のどこまでを信用していいのかは分かりませんが、株取引に関わっていて、2000年のITバブル崩壊で痛手を被った結果、軍に志願して「人生のやり直し」をしようとした可能性はあるように思います。

 こうなると、最初の不正引き出し疑惑の悪質性にもよりますが、ベイルス容疑者の軌跡は90年代から2000年代のアメリカの浮き沈みと見事に重なってきます。この時代のアメリカの「負の側面」を背負ったような形です。

 いずれにしても、こうした要素をいくら積み重ねてもアフガンの人々への謝罪にはなりません。事件そのものには弁解の余地がないからです。

 そうは言っても、明確な治療の失敗、明確なフラッシュバックによる心神喪失状態があるのであれば、アメリカ軍の士気を維持するという観点から、死刑が回避される可能性はゼロではないとも思えてきました。ただし、その場合はアフガン側の反発が大きくなることが予想され、結果的に米軍のアフガンからの撤兵が相当に前倒しになるということはあると思います。また、死刑となったとしても前線での厭戦ムードが拡大すること、退役軍人たちの複雑な思いなどから考えれば、これも撤兵前倒しの理由になるように思われます。

 2001年の10月にブッシュがタリバンを敵視して、空爆を開始してからのこのアフガン戦争に関しては、アメリカの国内や同盟国の中では批判がありました。その一方でこの戦争と連動する形で国連とNATOが活動することで、アフガンが平和に発展するというシナリオには、アメリカ国内にしても、同盟国にしても世論には一定の支持があったわけです。

 ですが、今、このベイルズ容疑者の事件と、恐らくはその展開に並行する形での米軍の早期撤退の可能性という事態を受けて、アフガン戦争は決定的な局面を迎えています。この11年と5カ月のアフガン戦争については、日本のインド洋給油や非軍事支援も含めて、米国とNATOを中心とした有志連合全体に関して、根本的な誤りがあったことを認めなくてならないと思います。1980年代のソ連によるアフガン侵攻と同じように巨大な国富を蕩尽した結果、多くの人命が失われ、結局何も産みだされないまま、幕引きへと進む、そのような段階が来ているのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、ハーバード大の免税資格剥奪を再表明 民

ビジネス

米製造業新規受注、3月は前月比4.3%増 民間航空

ワールド

中国、フェンタニル対策検討 米との貿易交渉開始へ手

ワールド

米国務長官、独政党AfD「過激派」指定を非難 方針
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得る? JAXA宇宙研・藤本正樹所長にとことん聞いてみた
  • 2
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 3
    インドとパキスタンの戦力比と核使用の危険度
  • 4
    日々、「幸せを実感する」生活は、実はこんなに簡単…
  • 5
    目を「飛ばす特技」でギネス世界記録に...ウルグアイ…
  • 6
    宇宙からしか見えない日食、NASAの観測衛星が撮影に…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    金を爆買いする中国のアメリカ離れ
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 5
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 8
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が…
  • 9
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story