コラム

記憶喪失を引き起こす奇病が蔓延する世界......『林檎とポラロイド』

2022年03月10日(木)15時28分

『林檎とポラロイド』

<エグゼクティブ・プロデューサーにケイト・ブランシェット。寓話的な物語を通して情報過多の時代に考察を加える......>

ギリシャの新鋭クリストス・ニク監督がオリジナル脚本で作り上げた長編デビュー作『林檎とポラロイド』は、独特の色調、構図、テンポ、アナログへのこだわり、ミニマルでオフビートなスタイルなどを駆使して、冒頭から説明に頼ることなく私たちを現実とは違う世界に引き込んでしまう。

ブラインドが下ろされ、音楽が静かに流れる男の部屋。曲の合間に、記憶喪失者を救う新たな試みとして"新しい自分"プログラムが病院に導入されたというニュースが挟まる。外出した男は、車が渋滞しているのに気づく。その先頭では、無人の車の傍に男が座り込んでいる。後続の車から降りた女性が、その男に車を動かすように頼むと、彼は自分の車ではないと答える。彼女はすぐに状況を察したように救急車を呼ぶ。

その晩、バスのなかで目覚めた主人公は、運転手の問いかけに対して、目的地も名前も答えられなくなっている。身元を証明するものもない。彼が運ばれた病院には、突然記憶を失った人々が列をなしている。親族が迎えに来ない身元不明者は社会復帰も難しい。そこで男は、新たな経験と記憶を重ねて一から人生を築き直す"新しい自分"プログラムに参加することを決意し、カセットテープに吹き込まれた様々なミッションをこなし、経験をポラロイドで撮影し、アルバムに収めていく。

起源不明のパンデミック

これは物語の導入部にすぎないが、すでにそこには伏線といえるものがいくつか埋め込まれている。プレスにはニク監督の興味深いコメントが収められている。起源不明のパンデミックについては、「アルベール・カミュの『ペスト』からジョゼ・サラマーゴの『白い闇』まで、よく知られた文学の引用」と説明し、主演のアリス・セリヴェタリスには、事前に『エターナル・サンシャイン』と『トゥルーマン・ショー』を渡したと語っている。

そのなかですぐピンとくるのは、やはり『白い闇』だ。この小説では、突然目の前が真っ白になり、視力を奪われる謎の伝染病が蔓延するが、物語は信号待ちをする先頭の車の運転手が突然発症し、渋滞が発生するというエピソードから始まる。さらに、隔離された感染者のなかに、失明を装った女が紛れ込んでいることにも注目すべきだろう。

治療のための回復プログラム"新しい自分"

そんな設定に、『エターナル・サンシャイン』で描かれた記憶を部分的に除去する技術を結びつけると、ニク監督がなにをどうヒントにしたかがだいぶ見えてくる。それを踏まえると、シンプルで淡々と描かれるように見える本作の導入部が意味するものががらりと変わる。

本作は、一定のリズムでなにかを打つような音に合わせて、薄暗い部屋の様子をとらえた映像が切り替わる謎めいた描写から始まり、やがて男が額を柱に打ちつける音だったことがわかる。テーブルの上や周りにはグラスやボトルが乱雑に置かれ、彼がなにかに苦悩していることを示唆している。

そんな彼は、"新しい自分"プログラムのニュースを耳にし、実際に発症して記憶を失った男の姿を目にして、なにを思っていたのか。さらに、この主人公の入院直後にも印象的なエピソードが盛り込まれている。彼は、同じ病室になった患者と、発症したときの状況について語り合う。その患者は、頭の芯に鋭い痛みがあったと説明する。一方、主人公は、覚えていないと答える。ところが彼は、その後の医師の診察のときに、頭の芯に痛みがあると語るのだ。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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