コラム

現代美術の巨匠リヒターの人生とドイツ戦後史に新たな光をあてる『ある画家の数奇な運命』

2020年10月01日(木)16時30分

リヒターのフォト・ペインティング、2つの作品で描かれたもの

事実とフィクションがその境界も曖昧になるほど複雑に入り組む本作には、冒頭で触れたドナースマルクの関心以外にもうひとつ、彼にインスピレーションをもたらしたと思われる重要な事実がある。

それは、リヒターが65年にフォト・ペインティングの作品として<叔母マリアンネ>と<ハイデ氏>を発表していることだ。前者には、安楽死政策の犠牲になった叔母と赤ん坊のリヒターが、後者には、安楽死政策の責任者で、59年に逮捕されたヴェルナー・ハイデが描かれている。

もちろんその事実がそのまま描かれるわけではなく、脚色が施され、絵もアレンジされているが、事実がもとになっていることははっきりわかるし、物語がそこに集約されるように緻密に構成されている。

ヴェルナー・ハイデはブルクハルト・クロルという名前に変えられ、登場する場面はわずかでありながらその存在が印象に残っていく。ソ連軍の捕虜となったゼーバントは、少佐から真っ先に安楽死政策の責任者だったクロルの所在を問い詰められるが、彼はしらを切る。異動が決まった少佐がゼーバントに別れを告げるときにも、同じことを尋ねるが、彼は沈黙を守る。

そして数年後、西ドイツに暮らすゼーバントとクルトがレストランで食事をしているときに、店に入ってきた新聞売りの少年がクロルの逮捕を告げる。クルトは何の気なしにその新聞を持ち帰り、記事に添えられた連行されるクロルの写真が、彼の画家としての運命を変えていくことになる。

ハイデが逮捕されるのは59年で、リヒターが彼を描くのがその6年後なので、かなり脚色されてはいるが、それでもドナースマルクの<ハイデ氏>へのこだわりは、容易に察せられるだろう。

当時リヒターはどんな心境だったのか

さらにもうひとつ、ここで頭に入れておくべきことがある。本作の物語は60年代半ばで終わるが、その当時、リヒターのフォト・ペインティングのモチーフとなった写真は無作為に選ばれていると信じられていた。彼の叔母とハイデの繋がりが明らかになるのはもっと後のことだ。

そういう意味では、当時リヒターがどんな心境だったのかを振り返ってみるのも無駄ではないだろう。『ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』に収められた2001年のインタビューにとても興味深い発言がある。

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『ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』清水穣訳(淡交社、2005年)

リヒターがハイデを描いたときに、ハイデが何者か知らなかったのかという質問に対して、以下のように答えている。


「いや、もちろん知っていました。でもただちに抑圧したのです。それで他のと同じような絵になりました。逮捕された他の男となんら変わらない男だったようにみせようとしました。二人の警官がみえますね。告発者の仲間入りはしたくなかった。アンチ・ファシストたちの群れに加わってもいません。私はアンチ・ファシストではないので。ただファシストでもありませんよ。あまりにも多くのことを意識するのは嫌でした。たんに自分の進む方向に進みたかった。それは今でも同じです。

当時、私は自分がしていることを本当に理解していませんでした。あとから「ああ、それでこうしたのか、いまわかった」と思うのです。絵画でも同じです。でも当時は今よりももっと内向していたので、ハイデと自分のあいだにいかなる関係をも拒絶したことでしょう(後略)」

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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