コラム

財政負担問題はなぜ誤解され続けるのか

2018年12月10日(月)16時10分

そうした中で、増税論にとっての最後に残された切り札のような役割を果たしてきたのが、政府債務の将来世代負担論である。この議論が増税論にとって好都合なのは、経済実態がどのように推移しようとも、それなりの大きさの政府債務が存在し続けている限り、この議論の「説得力」が失われることはないという点にある。たとえば、現実の財政破綻リスクは、市場に現れる国債金利やそのリスク・プレミアムなどによって容易に検証あるいは反証可能である。それに対して、政府債務の将来世代負担論には、そのような簡単な検証手段は存在しない。財政負担論が増税の論拠に利用され続けるのは、まさしくそのためである。

上の「建議」が典型的であるように、増税派はしばしば、政府債務それ自体を、「過去から現在に至る世代による将来世代からの収奪」であるかのように論じる。そこでは、放蕩の末に政府債務を将来世代に押し付けた平成という時代、あるいはその時代を生きた人々そのものが、意見表明ができない将来の人々から「財政資源」を奪い取った存在として、道徳的に断罪される。さらには、未だに増税を拒否し続けている現世代のすべてが、この「将来世代からの収奪」に加担する存在として、その罪過を指弾され続けるのである。

政治的プロパガンダか、それとも経済学的知見か

このように、増税に真剣に取り組もうとしない「我々」に対する「建議」の批判は手厳しい。それでは、今を生きるわれわれは本当に、将来の人々から「財政資源」を奪い取り続けていることに対して、常に負い目を感じながら生きていくしかないのであろうか。

その答えは明確に否である。というのは、ある政策的な立場の人々が、仮に「政府の財政赤字はすべて将来世代の負担となる」かのように述べているとすれば、それは彼らが、経済学的な政策命題ではなく、一つの明白に誤った政治的プロパガンダを表明しているにすぎないからである。

実際のところ、「財政資源の枯渇」という「建議」の表現がいったい何を意味するのかは、まったく明確ではない。しかしそれを読んだ人々は、おそらく確実に、政府債務=将来世代負担という「命題」がそこでの議論の前提となっているという印象を持つであろう。その意味では、この「建議」の内容は、経済学的知見に基づく政策提言というよりは、政治的プロパガンダにより近いのである。

それでは、この赤字財政の負担問題に関する「経済学的知見」とは何か。筆者は実は、本コラム「政府債務はどこまで将来世代の負担なのか」(2017年07月20日付)において、その課題に対する筆者なりの見方を既に明らかにしている。とはいえ、筆者自身がそれを「経済学的知見」を代表するものであるかのように喧伝するわけにもいかないであろう。というよりも、増税派の人々にとっては、逆にそれこそが「反増税派によるプロパガンダ」のように見えているはずである。

そこで今回は、前回とはまったく異なったアプローチを試みることにする。それは、経済学者たちがこれまでその問題をどう論じてきたかを確認してみるというやり方である。しかし、一口に経済学者といっても、その政策的な立場は千差万別である(そもそも「建議」の執筆者のほとんども経済学者である)。そこでここでは、より簡易な手法として、長きにわたって幅広く受け入れられてきた経済学の教科書で、この赤字財政の負担問題がどのように論じられていたのかを確認することを通じて、この問題に関する「経済学的知見」を確かめてみることにしよう。

ここでの具体的な吟味の対象は、『サムエルソン経済学』(都留重人訳、1977年、岩波書店)である。これは、Paul A. Samuelson, Economics, 10th edition の邦訳である。Samuelsonの Economicsは、1948年に初版が発刊されて以来、2009年に発刊された第19版(William D. Nordhausによる改訂版)に至るまで、各国各世代の経済学初学者に読み継がれてきた、経済学の最も代表的な教科書である。それは、41ヶ国語に翻訳され、合計で400万部以上を販売するなど、何十年にもわたりベストセラーとして経済学教科書の世界に君臨してきた(WikipediaのEconomics_(textbook)による)。

この本の邦訳にもいくつかの版があるが、筆者の手許にあるのは、1977年に出版された「原書第10版」の翻訳である。筆者がそれを所有しているのは、それが大学生の頃の教養課程の必修講義「経済学」のテキストに指定されていたからである。ちなみに、その講義は、日本の計量経済学の草分けの一人であった内田忠夫教授によるものであった。1970年代後半に大学に入学した筆者に近い世代では、この本によって初めて「近代経済学」を学んだという経済学部生も多かったはずである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

豪、中国軍機の照明弾投下に抗議 南シナ海哨戒中に「

ワールド

ゼレンスキー氏、パトリオット・システム25基購入契

ビジネス

日経平均は大幅反発、初の4万9000円 政局不透明

ワールド

独政府、F35戦闘機15機追加発注を計画と関係筋 
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本人と参政党
特集:日本人と参政党
2025年10月21日号(10/15発売)

怒れる日本が生んだ「日本人ファースト」と参政党現象。その源泉にルポと神谷代表インタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号返上を表明」も消えない生々しすぎる「罪状」
  • 2
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多い県」はどこ?
  • 3
    本当は「不健康な朝食」だった...専門家が警告する「実は避けるべき」一品とは?
  • 4
    今年、記録的な数の「中国の飲食店」が進出した国
  • 5
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 6
    ニッポン停滞の証か...トヨタの賭ける「未来」が関心…
  • 7
    ギザギザした「不思議な形の耳」をした男性...「みん…
  • 8
    【インタビュー】参政党・神谷代表が「必ず起こる」…
  • 9
    「中国は危険」から「中国かっこいい」へ──ベトナム…
  • 10
    「認知のゆがみ」とは何なのか...あなたはどのタイプ…
  • 1
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号返上を表明」も消えない生々しすぎる「罪状」
  • 2
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以外の「2つの隠れた要因」が代謝を狂わせていた
  • 3
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多い県」はどこ?
  • 4
    まるで『トップガン』...わずか10mの至近戦、東シナ…
  • 5
    フィリピンで相次ぐ大地震...日本ではあまり報道され…
  • 6
    中国人が便利な「調理済み食品」を嫌うトホホな理由…
  • 7
    日本で外国人から生まれた子どもが過去最多に──人口…
  • 8
    「心の知能指数(EQ)」とは何か...「EQが高い人」に…
  • 9
    本当は「不健康な朝食」だった...専門家が警告する「…
  • 10
    「欧州最大の企業」がデンマークで生まれたワケ...奇…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 3
    カミラ王妃のキャサリン妃への「いら立ち」が話題に...「少々、お控えくださって?」
  • 4
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 5
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 6
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 7
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最…
  • 8
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 9
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 10
    【クイズ】日本人が唯一「受賞していない」ノーベル…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story