コラム

「座りたがる妊婦」を非難する是非

2011年10月07日(金)10時05分

 中国は今でもレストランの会食の席は食べ散らかしたゴミだらけ、いったんレストランを出ればところかまわず地面に痰を吐く――という「マナー後進国」だが、今から7、8年前北京に住んでいたころ、その中国人のマナーで感心させられたことがある。それは、バスや電車で老人に席を譲る意識の社会全体への浸透ぶりだ。

 まだまだ道路が整備されていなかったから、中国のバスはよく揺れた。運転もどちらかと言うと荒いし、当時はまだ市内に今ほど地下鉄が普及しておらず、市民の主な交通手段はバスで、出勤・通勤時間帯はとても込み合っていた。座席を確保した人は誰しも席を離れたくないと思うだろうに、それでも老人が乗ってきたら誰もが「あー、座りなよ!」と、当然のように席を譲っていた。譲られる方も「ありがとねー」と、感謝の気持ちを顔いっぱいに表しながら座る。その様子がなんとも自然でほほえましく、見ていて「自分もそうしたい」と素直に思えた。

 読売新聞のウェブサイトに「発言小町」という掲示板がある。そこに最近、妊娠7カ月だという女性が「通勤電車で座れない。優先座席に座っている人に席を譲ってもらえるようお願いしたいが、どう思うか」という投稿をしたところ、ちょっと驚くような反応が回答欄に並んだ。タイトルだけ列挙すると......


 辞めれば?
 早い時間に出勤すべし
 私には声を掛けないでほしい
 普通席でお願いしてください
 みんな自己責任で乗車しましょうよ
 同じ妊婦さんならどうなるの

 それぞれ主張は微妙に異なるが、まとめれば「優先座席には一見病気に見えない人も座っているから、妊婦の権利を振りかざしてそんな人に席を譲らせるのは傲慢。そもそも家を出る時間を早くして始発に乗るなど、座れるような努力をすべき。他人に甘えるな」ということになる。この妊婦を擁護する意見は、少なくともこの掲示板では少数派だった。

 高齢者や障害者、けが人、妊婦、幼児連れを利用対象とする優先座席に、一見病人に見えない人が座る場合も多いだろう。見た目が健常者だからといって、「ハンディキャップのある人のふりをしている」と断罪するのは短絡的だし、そもそも日本の都市圏の通勤電車の込み具合は、フレックスタイムの勤務体制が普及しつつあるとはいえまだまだ殺人的だ。ギュウギュウ詰めの電車に7カ月の妊婦が乗るのは自殺行為にも思える。

 一見正論に見える。だが、その「正論」を振りかざして妊婦を混雑した電車から排除したところで、問題は何も解決しない。

 経済や社会的要因で日本人のストレスは確実に強まっている。掲示板の一律な反応は、その反映なのだろう。それぞれの負荷が増えたことで、他人を思いやる余裕が日本人から失われ、「足手まといになる存在は切り捨てるしかない」という感情が日本社会全体に広がりつつある。「自己責任」という言葉が飛び交っていることが、そのことの何よりの証明だ。この問題の本質は、「座りたがる妊婦」の是非ではなく、「座りたがる妊婦を受け入れること」の是非にある。

「座りたがる妊婦」の批判者に対して、筆者も最初は「思いやりがなさすぎる」と憤った。しかし、実はそういった正義感もまた不毛なのかもしれない。憎悪は憎悪しか生まない。こういった排除の意識が生まれる原因の、そのまた根っ子まで掘り下げて考えなければ、かえって日本社会に憎悪があふれかえるだけだ。

 マナー先進国のはずの日本だが、先進国なのは表面だけで実は「後進国」の中国に劣るのかもしれない。もっとも今は老人に席を譲る中国も、いずれ国や社会が行き詰まれば日本のようになる可能性だってあるのだが。

――編集部・長岡義博(@nagaoka1969)

プロフィール

ニューズウィーク日本版編集部

ニューズウィーク日本版は1986年に創刊。世界情勢からビジネス、カルチャーまで、日本メディアにはないワールドワイドな視点でニュースを読み解きます。編集部ブログでは編集部員の声をお届けします。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国、25年の鉱工業生産を5.9%増と予想=国営テ

ワールド

中国、次期5カ年計画で銅・アルミナの生産能力抑制へ

ワールド

ミャンマー、総選挙第3段階は来年1月25日 国営メ

ビジネス

中国、ハードテクノロジー投資のVCファンド設立=国
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...どこでも魚を養殖できる岡山理科大学の好適環境水
  • 4
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 5
    「時代劇を頼む」と言われた...岡田准一が語る、侍た…
  • 6
    「衣装がしょぼすぎ...」ノーラン監督・最新作の予告…
  • 7
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 8
    ノルウェーの海岸で金属探知機が掘り当てた、1200年…
  • 9
    「個人的な欲望」から誕生した大人気店の秘密...平野…
  • 10
    【銘柄】「Switch 2」好調の任天堂にまさかの暗雲...…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 4
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 5
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 6
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 7
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 8
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 9
    懲役10年も覚悟?「中国BL」の裏にある「検閲との戦…
  • 10
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開した…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 6
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 7
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 8
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story