コラム

ナショナリズムを刺激する「軍艦島」の、世界遺産としての説明責任は重い

2020年07月27日(月)18時40分

しかしながら、ここで述べなければならないのは、この「世界遺産としての明治日本の産業革命遺産」に対する、日韓或いは日中の「熱い論争」もまた、北東アジアの狭い歴史的文脈の中から生まれたものであり、その域外にある他国にはその文脈が共有し難いものだ、と言う事である。

その事の意味はこの「世界遺産」の世界史的な位置づけを考えればわかる。確かにユネスコはその登録において、明治期の産業化遺産を「日本が世界有数の工業国にのし上がった」基盤を作ったものだと認定しているが、その事は必ずしも、この遺産に数あるユネスコの世界遺産の中で、突出した歴史的重要性が与えられている事を意味しない。即ち、この遺産は現在認定されている50もの産業化に関わる世界遺産の一つにしか過ぎず、これらの産業化遺産の中には、産業革命の先鞭をつけたイギリスのものは勿論、インドや中南米といった非欧米諸国のものも数多く含まれている。そもそも日本自身にとっても、過去に富岡製糸場や石見銀山が世界遺産に登録されており、「明治日本の産業革命遺産」は、日本国内で初めて産業化遺産として登録された世界遺産ではないのである。仮に登録の順序が、国際社会における個々の歴史的遺産の重要性に対する理解と、それを考慮した各国政府の戦略をある程度反映したものであるとするならば、明治期の産業化遺産に対する国際社会の注目度は、法隆寺や姫路城、更には原爆ドームや熊野古道に大きく劣る事になる。ユネスコはこれまで193か国の1121件をも世界遺産に指定しており、その数は文化遺産だけで869件に及んでいる。当然の事ながら、「明治日本の産業革命遺産」はその中の一つ、にしか過ぎないのである。

問題は朝鮮人差別ではない

にも拘わらず、明治期の近代化の歴史を自らの国民的アイデンティティの重要な一部をなすと考える多くの日本人は、ここでは過敏な反応を見せる事になる。例えば、冒頭に取り上げたセンターでは、端島において「朝鮮人だからと言って差別されたことはない」とした、在日韓国人2世の元島民の証言が紹介されている。しかし、この様なアプローチは既にそのインタビューの方向性が、日本側の「国民史」からのバイアスを強く受ける事になってしまっている。何故なら、「世界遺産」的な観点から言うなら、炭鉱等において過酷な状況に置かれた事に対する悲惨さは、そこにおける労働者たちの出自とは何の関係もない筈のものだからである。そもそも2015年に韓国政府が主張したのは「朝鮮人の強制労働」であって、「朝鮮人に日本人と異なる待遇が与えられた事」ではない。内地出身者であろうと、朝鮮半島出身者であろうと、そこに悲惨な日常があったのであれば、その事実が国際社会においては否定的に捉えられる事は避けられず、殊更に「そこに差別がなかった」事を強調する意味は何もない。にも拘わらず、本来関係のない筈の「差別」に焦点が当てられてしまった背景に、耳障りな韓国や中国の指摘に反発し、この時代を少しでも肯定的に記述したい日本の「国民史」の側の事情を読み取る事は容易である。

プロフィール

木村幹

1966年大阪府生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科教授。また、NPO法人汎太平洋フォーラム理事長。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。最新刊に『韓国愛憎-激変する隣国と私の30年』。他に『歴史認識はどう語られてきたか』、『平成時代の日韓関係』(共著)、『日韓歴史認識問題とは何か』(読売・吉野作造賞)、『韓国における「権威主義的」体制の成立』(サントリー学芸賞)、『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』(アジア・太平洋賞)、『高宗・閔妃』など。


あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

コロンビア中銀、予想外の政策金利1%引き上げ 10

ワールド

コスタリカ大統領選、現職後継の右派候補が勝利目前

ワールド

インド26年度予算案、財政健全化の鈍化示す=フィッ

ビジネス

氷見野副総裁、3月2日に和歌山で懇談会と記者会見=
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:高市 vs 中国
特集:高市 vs 中国
2026年2月 3日号(1/27発売)

台湾発言に手を緩めない習近平と静観のトランプ。激動の東アジアを生き抜く日本の戦略とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本への威圧を強める中国...「レアアース依存」から脱却する道筋
  • 2
    関節が弱ると人生も鈍る...健康長寿は「自重筋トレ」から生まれる
  • 3
    世界初、太陽光だけで走る完全自己充電バイク...イタリア建築家が生んだ次世代モビリティ「ソラリス」
  • 4
    【銘柄】「古河機械金属」の株価が上昇中...中国のレ…
  • 5
    中国がちらつかせる「琉球カード」の真意
  • 6
    180万トンの「リチウムごみ」を資源に...EV電池の「…
  • 7
    高市首相の発言は正しかった...「対中圧力」と「揺れ…
  • 8
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 9
    【銘柄】「大戸屋」「木曽路」も株価が上がる...外食…
  • 10
    中国政府に転んだ「反逆のアーティスト」艾未未の正体
  • 1
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 2
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」と「フリース」に移った日
  • 3
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界でも過去最大規模
  • 4
    180万トンの「リチウムごみ」を資源に...EV電池の「…
  • 5
    日本への威圧を強める中国...「レアアース依存」から…
  • 6
    一人っ子政策後も止まらない人口減少...中国少子化は…
  • 7
    スペースXの宇宙飛行士の帰還が健康問題で前倒しに..…
  • 8
    ロシア軍の前線で「弾よけ」にされるアフリカ人...兵…
  • 9
    町長を「バズーカで攻撃」フィリピンで暗殺未遂、大…
  • 10
    秋田県は生徒の学力が全国トップクラスなのに、1キロ…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 2
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 3
    中国製防空レーダーは米軍のベネズエラ攻撃に屈した──台湾高官が分析
  • 4
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」…
  • 5
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?【202…
  • 6
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡…
  • 7
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 8
    防衛省が「新SSM」の映像を公開、ノルウェー・コング…
  • 9
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界…
  • 10
    【クイズ】韓国を抜いて1位に...世界で最も「出生率…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story