コラム

ロンドンの「難あり」公共交通を救うのは

2010年11月18日(木)16時13分

 16年余りの外国暮らしの間に、僕は何度かイギリスに戻ることがあった。そのたびに嫌というほど感じたのは、公共交通機関がどんどん悪化していったということ。時には状況が少しばかり前進していることもあったが、それには必ず後退がついて回るのだ。

 たとえば、列車の車両内がより明るくて清潔になったとする。すると今度は運賃が劇的に値上げされる。運行が今までより時間に正確になったとする。すると次には1日の運行本数が減らされ、停車中の時間調整も長くなって目的地まで結局は長い時間がかかるようになる。

 僕は公共交通機関についてはちょっとうるさいタイプだ。公共交通は、経済や環境にとってものすごく重要というだけではなく、国の健康度を示すバロメーターのようなものだと僕は考えている。

 公共交通機関がお粗末な国は健全ではない。残念ながら僕の人生において、イギリスの公共交通機関は次第に「ダイヤが乱れがちだが上等」という状態から「ひどくて運賃が高い」、さらには「少しましになったが犯罪的に運賃が高い」状態へと変化している。

 だから、ロンドンの公共交通機関にまったく新しい手段が加わったと聞いて、僕は大喜びした。その手段とは......自転車だ。

 アイデア自体は新しいものではない(ヨーロッパの数都市で、自転車公共レンタルの試みは既に取り入れられている)。市内の数百カ所の「ステーション」に自転車が設置され、利用者がどこかのステーションから自転車を借り、別のステーションで乗り捨てる、という仕組みだ。

自転車ステーション

 ロンドンもこのシステムを導入すべきだと言われ続けてきたが、うまくいきっこないという反対論が根強かった。自転車がテムズ川に投げ込まれるだろう。ロンドンの道路は自転車走行には狭すぎるし交通の妨げになるに決まっている。自転車が数カ所のステーションにばかりたまってしまい、必要なステーションに1台もなくなってしまう(丘のふもとにはあっても丘の頂上にはないとか)......などだ。

 極めつけの主張は「アムステルダムは自転車向きの都市かもしれないが、ロンドンはそうじゃない」。まるで自転車が走れる都市が最初から決まっているかのようだ。そしてロンドンはそれには含まれない、と。

 確かにこの数十年、ほかのヨーロッパの都市に比べ、ロンドンを自転車で走る人の数はずっと少なかった。子供は自転車通学をしていたが、大人は自転車とは無縁だった。

 それでも自転車を試してみようと決定がなされたのは、ある自転車マニアのおかげかもしれない。ロンドンのボリス・ジョンソン市長は少しばかり変わったタイプで、ぼさぼさのブロンドヘアをなびかせて市内を自転車で走り回ることで知られている。今では新たな公共レンタルシステムのおかげで、数多くのロンドン市民が彼と同じように自転車を走らせることができる。

■レンタルに「事前登録」?!

 今週、僕も試してみようと思い立った。タワーブリッジからバーモンジーまで(約1・5キロ)ランチを食べに出かけ、その後ウォータールーで(さらに1・5キロちょっと)用事を済ませる必要があったからだ。短時間ならレンタル料金は格安だと聞いていたので(1時間までは1ポンド、30分以内は無料)、自転車で行くのが理想的に思えた。

 ところがいざ自転車を借りに行くと、残念ながらオンラインで事前にメンバー登録して必要な料金を支払っておかなければならないことがわかった。その場で借りられる方法はなかったのだ。これはとてもじゃないがいいシステムとは思えなかった。地下鉄に乗るのだって、事前登録なんて必要ないじゃないか。

 イギリスにはこんな具合に、不合理なことが山ほどある。たとえば最近思い知ったのだが、ロンドン通勤圏のエセックス州でロンドン行きの往復列車の切符を買うより、ロンドンからアイルランドのダブリンへの往復航空券を買うほうが安い(本当の話だ)。

 ほかにも列車の路線によっては、出発1時間前に乗車券をオンラインで購入すると、同じく1時間前に駅で購入するよりずっと安くなる。こんなシステムがあるのを知らない外国人や、インターネットを利用しない人々を差別しているとしか思えない。

 自転車が借りられないと分かった僕は怒り出しそうになったが、代わりにゆっくりと深呼吸した。ステーションにわびしくたたずむ僕の目に映ったのは、雨の午後にもかかわらず何十台分も並んだ空のラック。つまりロンドンでは、多くの市民が法外な運賃を払って混んだ地下鉄に乗らずに目的地に向かえるようになった、というわけだ。

 実際、ロンドンを歩き回った僕は、多くの自転車に乗った人々が行きかうロンドン市街の光景を初めて目にした。道路を疾走する配達人や我が道をいく変人だけでなく、会社員や学生といった普通の人々だった。

 ロンドンが今までとは違って見えた。初めて、自転車にふさわしい都市に見えたのだ。いつもは車が自転車を邪魔者扱いしていたような都市で、突然自転車が増え、車のドライバーも気付いたに違いない。自転車だって、自分と同じ人間が走らせている乗り物なんだと。

 ついに公共交通機関に素晴らしいことが起こった。ロンドンを見て、僕はそう思った。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏「ウクライナはモスクワ攻撃すべきでない」

ワールド

米、インドネシアに19%関税 米国製品は無関税=ト

ビジネス

米6月CPI、前年比+2.7%に加速 FRBは9月

ビジネス

アップル、レアアース磁石購入でMPマテリアルズと契
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パスタの食べ方」に批判殺到、SNSで動画が大炎上
  • 2
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長だけ追い求め「失われた数百年」到来か?
  • 3
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」だった...異臭の正体にネット衝撃
  • 4
    真っ赤に染まった夜空...ロシア軍の「ドローン700機…
  • 5
    「このお菓子、子どもに本当に大丈夫?」──食品添加…
  • 6
    「史上最も高価な昼寝」ウィンブルドン屈指の熱戦中…
  • 7
    約3万人のオーディションで抜擢...ドラマ版『ハリー…
  • 8
    「オーバーツーリズムは存在しない」──星野リゾート…
  • 9
    「巨大なヘラジカ」が車と衝突し死亡、側溝に「遺さ…
  • 10
    歴史的転換?ドイツはもうイスラエルのジェノサイド…
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首」に予想外のものが...救出劇が話題
  • 4
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 5
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    イギリスの鉄道、東京メトロが運営したらどうなる?
  • 8
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「…
  • 9
    エリザベス女王が「うまくいっていない」と心配して…
  • 10
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パス…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story