コラム

シーア派大物思想家の死を巡って

2010年08月18日(水)15時26分

 少し前のことになるが、先月6日、レバノンのシーア派宗教指導者、ムハンマド・ファドラッラー師が逝去した。このファドラッラー、イスラエルや欧米諸国から「テロ集団」とみなされているレバノンの政治勢力、ヒズブッラーの精神的指導者だということで、あたかも「テロリストの師匠」のように報じられている。それはちょっとなあ、と思い続けてきたので、この機に少し、彼のことに触れてみたい。というのも、彼の世代のイスラーム思想家たちは、シーア派社会のなかでたいへん重要な位置を占めるからである。

 レバノン人の両親のもとに生まれたファドラッラーは、生まれ育ちはイラクのシーア派聖地のナジャフで、1966年、31歳までそこでイスラーム教育を受けた。50年代後半から60年代前半に20歳代という才気煥発な青春時代を送った、ということは、実に重要だ。なぜなら同じ頃、同様に才能溢れる若き宗教指導者、ムハンマド・バーキル・サドルが、革命的なイスラーム思想を引っさげて、ナジャフに一大旋風を巻き起こしていたからである。

 当時宗教界は、教育や冠婚葬祭といった宗教の基本的な仕事すら国の行政に奪われ、衰退の一路をたどっていた。頑迷固陋な保守派の長老たちは象牙の塔にしがみつくだけ、若者は宗教よりも当時流行の左翼思想に傾倒する中、バーキル・サドルら若手のイスラーム思想家たちは、イスラームをいかに現代社会のなかで再生するかに力を注いだ。サドルの提唱する新しいイスラーム思想は、社会主義や資本主義ができることはイスラームにだって(それ以上に)できるという、現代西欧思想へのチャレンジだった。
 
 50年代に頭角を現したこうしたシーア派若手思想家たちが、70年代後半以降のシーア派社会の動乱を支えたといって過言ではない。まずは、イランのホメイニー。ナジャフでの留学のあとパリに亡命し、1979年のイラン革命を指導して、世界で始めて宗教学者が統治するイスラーム政権を作った。ホメイニー同様、イスラームによる政治監視を主張したバーキル・サドルは、80年にサダム・フセインに殺されたが、彼が設立したダアワ党は現在、イラク戦争後のイラクで堂々たる与党の座にあり続けている。そして、ファドラッラーの作ったヒズブッラーは、イスラエルの攻撃に屈することなくレバノン南部で勢力を誇る。

 なので、CNNの中東担当のベテラン、オクタヴィア・ナスル女史が「ファドラッラーを尊敬する」と述べて解雇されたのには、深く同情を禁じえない。好き嫌いは別として、これらの思想家たちが現代シーア派社会に大きな影響を与えたことは、紛れもない事実だからである。駐レバノン英国大使を含めて、こっそりツイッターでファドラッラーに賛辞を送っている人たちも少なくないのだから、いい加減「テロリストの親玉」報道は止めて欲しいものだ。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

物価目標の実現「着実に近づいている」、賃金上昇と価

ワールド

拙速な財政再建はかえって財政の持続可能性損なう=高

ビジネス

トヨタの11月世界販売2.2%減、11カ月ぶり前年

ビジネス

予算案規模、名目GDP比ほぼ変化なし 公債依存度低
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 2
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足度100%の作品も、アジア作品が大躍進
  • 3
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...どこでも魚を養殖できる岡山理科大学の好適環境水
  • 4
    素粒子では「宇宙の根源」に迫れない...理論物理学者…
  • 5
    ジョンベネ・ラムジー殺害事件に新展開 父「これま…
  • 6
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 7
    ノルウェーの海岸で金属探知機が掘り当てた、1200年…
  • 8
    ゴキブリが大量発生、カニやロブスターが減少...観測…
  • 9
    「個人的な欲望」から誕生した大人気店の秘密...平野…
  • 10
    「時代劇を頼む」と言われた...岡田准一が語る、侍た…
  • 1
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 2
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低く、健康不安もあるのに働く高齢者たち
  • 3
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開したAI生成のクリスマス広告に批判殺到
  • 4
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末…
  • 5
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 6
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 7
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦…
  • 8
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 9
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 10
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 7
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 8
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 9
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 10
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story