コラム

安倍政権の「逆所得政策」で正社員と非正社員の格差が拡大する

2014年03月26日(水)14時12分

「デフレ脱却」を掲げた安倍政権は「インフレ→企業収益の拡大→賃金上昇→消費拡大→景気上昇」という経済の「好循環」が起こるといっていたが、1年たって現実はどうだろうか。まずインフレで一部の輸出企業の収益は改善したが、日本全体としては貿易赤字になり、成長率も下がった。この結果、今年1月の現金給与総額は前年比-0.2%、実質賃金は-1.8%となった。これは当然だ。

 実質賃金=名目賃金-物価上昇率

 だから、給与総額が上がらないのに物価だけ上がったら実質賃金は目減りする。これに反発が強まっていることから、政府は企業に「賃上げ要請」を繰り返してきた。甘利経済再生担当相は「利益が上がっているのに賃上げしないのは好循環に非協力だ」といい、大手企業の経営者を集めて政労使会議を開いて賃上げを要請してきた。

 さらに政府は東証一部上場企業1800社を対象に春闘の賃上げ状況を調査し、非協力的な企業名を公表するという。これは政府が賃金を統制する「所得政策」の一種だ。通常の所得政策はインフレを抑えるために賃金を抑制するものだが、安倍政権はその逆に賃上げを要請する、世界にも例のない逆所得政策を(法的根拠もなく)実施しているのだ。

 その結果、トヨタやローソンなど業績の好調な企業はベースアップし、菅官房長官は「近年にない賃上げが実現したことは評価したい」と喜んでいる。しかしこれは上の式からもわかるように、物価上昇に見合って名目賃金が上がっただけだから、実質賃金はほとんど変わらず、実質消費も増えないので「好循環」は起こらない。

 さらに問題なのは、春闘に加わっているのは労働者全体の18%の大手企業の正社員に限られることだ。岡山大学の釣雅雄氏の調べによれば、今年1月の正社員と非正社員の賃金は、正社員の時給が約2000円なのに対して非正社員は約1000円と、2倍の格差がついている。

 実質ベースの企業収益が変わらないで正社員の賃金が上がると、低賃金の非正社員が増え、平均賃金が下がる。それがこの15年、日本経済に起こったことだ。非正社員の比率は35%に達し、特に流通業では45%を超えた。大企業の正社員がベースアップで豊かになる一方、サービス業で時給1000円のパートタイマーが増え、格差は拡大するだろう。

 アベノミクスは、実験としては悪くなかった。「リーマン・ショック」で萎縮した企業心理を改善する効果もあった。しかし「期待」で動くのは株価と地価ぐらいで、実体経済は実質所得が増えて需要が拡大しないと改善しない。インフレはその結果として起こるものであり、インフレで所得を増やそうというのは、靴紐を引っ張って空に上がろうというような話である。

 実体経済をみると、原油高・ドル高・原発停止でエネルギーコストが3年で20%も上昇した供給ショックが大きい。こういう状況で大企業の正社員の春闘相場を上げても、その陰で泣く非正社員が増えるだけだ。所得の低い人ほど消費性向は高いので、格差が拡大すると消費は減る。これから消費税率が上がったら、さらに実質所得が減り、消費が縮小してデフレに戻る「悪循環」も起こりうる。

 これに対して日銀に「追加緩和」を求める向きもあるが、エネルギー供給制約が強まっているとき、いくら通貨を供給しても景気はよくならない。まず原発を運転し、経済を正常化することが先決だ。アベノミクスの唯一の取り柄だった心理的効果はもう出尽くしたので、そろそろ手じまいしてはどうだろうか。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、ウォルツ大統領補佐官解任し国連大使に指

ワールド

米との鉱物協定「真に対等」、ウクライナ早期批准=ゼ

ワールド

インド外相「カシミール襲撃犯に裁きを」、米国務長官

ワールド

トランプ氏、ウォルツ大統領補佐官を国連大使に指名
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ウクライナ戦争は終わらない──ロシアを動かす「100年…
  • 5
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 6
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 7
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 8
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 9
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 10
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story