コラム

かろうじて均衡を保っていた家族の実態が暴き出される、『落下の解剖学』

2024年02月21日(水)19時35分

やがて始まる裁判では、夫婦の複雑な関係が明らかにされていく。サンドラは、自分の心に忠実に生き、自由奔放な行動をとり、実体験を元に小説を作り上げる。一方、作家を目指すサミュエルは、生活に追われ、妻に振り回され、方向性が定まらずにもがいているようにも見える。そこで軋轢が生まれる。

夫婦の実態が暴かれるその裁判もまた、事実と虚構というテーマと無関係ではない。サンドラは、久しぶりに再会した旧知の弁護士ヴァンサンに、自分は殺していないと訴えるが、彼は、問題はそこじゃないと釘を刺す。さらに、夫婦の争いが録音されていたことを知った彼女は、歪められた事実が証拠にされてしまうと、不安を口にする。それに対してヴァンサンは、事実かどうかは関係ない、人の目にどう映るかが問題なのだと答える。これまで作家として、事実と虚構を操ってきた彼女は、逆にそれに振り回され、追い詰められているともいえる。

 
 

世代を超えた探求と内面の葛藤

これに対してダニエルの人物像や立場からは、異なるテーマが浮かび上がってくる。それは監督としてのアラリが関心を示してきたテーマだ。彼がこれまでに監督した2作品の題材はまったく異なるが、テーマには深い繋がりがある。

デビュー作のフィルム・ノワール『汚れたダイヤモンド』(2016)では、窃盗団の一員である主人公ピエールが、消息不明の父親が惨めな最期を迎えたことを知り、復讐を誓う。ダイヤモンド商の一家に生まれ、優れた職人だった父親は、伯父の冷たい仕打ちによって家を追われた。そう考えるピエールは、伯父一族に接近し、貴重なダイヤの強奪を計画する。だが、カット職人の見習いとなった彼は、ダイヤの輝きに魅せられ、才能を開花させていく。

そんな物語のポイントになっているのは、父親と息子の関係だ。ピエールにとって父親的存在は窃盗団のリーダーだったが、熟練のカット職人やインド人のダイヤモンド商と価値観を共有することによって、その図式が崩れ、激しい混乱のなかで彼は変容を遂げていく。

小野田寛郎の実話を元にした2作目の『ONODA 一万夜を越えて』(2021)が描くのも、ジャングルにおける過酷なサバイバルだけではない。その導入部だけでも父親的な存在が強く意識されていることがわかる。航空兵にも特攻隊にもなれず、自暴自棄になっている小野田の前に、陸軍中野学校二俣分校の谷口教官が現れる。谷口は、小野田が死にたくないと思っていることを見抜いていて、救いの手を差し伸べる。

だが、どんな救いなのかはすぐにはわからない。その代わりに、小野田が旅立つ前に、彼の父親が、いざというときに自決するための短刀を差し出す場面が挿入される。やがて明らかになる谷口の教えは、そんな父親とはまったく違っていた。小野田には自決する権利はなく、常に自分で判断し解決策を見いださなければならなかった。

この二作品は、主人公の内面に注目するなら、彼らが父親的な存在との関係からいかに脱却し、新たな世界を切り拓く、あるいは自己を確立するかを描いていることになる。それは本作のダニエルにも当てはめることができる。

ダニエルの成長と親子再定義

本作の前半では、サンドラの存在が際立っているが、ダニエルの内面を想像させるエピソードも埋め込まれている。たとえば、散歩のために外に出たダニエルに、両親の話し声が聞こえたかを確認する現場検証の場面だ。鋭い聴覚を持つダニエルは、これまで両親の会話を聞かないようにしてきたこと、両親をよくわかってなかったことに複雑な思いを抱いているように見える。

だからこそ彼は、傍聴席でどんな証言も、証拠の音声も聞き逃さないように集中している。そして、それらを手がかりに、事件当日だけでなく、時間をさかのぼり、身の周りで起きていたことを振り返り、大胆な検証まで試みる。その過程でこれまでの親子の関係は崩壊し、彼が自分で下した判断が、母親との接触も拒んで心の準備をする最後の証言に集約される。

トリエとアラリそれぞれの視点が絡み合う法廷劇は、夫婦の複雑な関係を炙り出すだけでなく、ダニエルが自己を確立するための重要なイニシエーションにもなっている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

鉱物資源協定、ウクライナは米支援に国富削るとメドベ

ワールド

米、中国に関税交渉を打診 国営メディア報道

ワールド

英4月製造業PMI改定値は45.4、米関税懸念で輸

ビジネス

日銀、政策金利を現状維持:識者はこうみる
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 5
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 6
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 10
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 9
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 10
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story