コラム

アウシュヴィッツ収容所の隣、塀のこちら側のファミリードラマ『関心領域』

2024年05月23日(木)17時40分
『関心領域』

世界の映画祭を席巻したジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』は、ホロコーストをこれまでにない視点と表現で描き出す。

<アウシュヴィッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスをモデルに作り上げた人物にインスパイアされ、ルドルフと妻のヘートヴィヒを調査し、独自の世界を切り拓いている>

カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、世界の映画祭を席巻したジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』は、ホロコーストをこれまでにない視点と表現で描き出す。

本作には、マーティン・エイミスの同名小説という原作があるが、主人公たちの図式、展開、構成は大きく異なる。グレイザーは、エイミスがアウシュヴィッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスをモデルに作り上げた人物にインスパイアされ、ルドルフと妻のヘートヴィヒを調査し、独自の世界を切り拓いている。

ルドルフと妻子はアウシュヴィッツ収容所の隣で暮らしている。収容所とは共有の壁で隔てられ、広々とした庭がある邸宅だ。グレイザーは、塀のこちら側で一家が営む平穏な生活だけを、一定の距離を置いて淡々と描き出していく。

但し、塀があってもその向こうに監視塔や兵舎のような建物があるのはわかるし、煙が立ちのぼるのも見える。音は遮断できないので、犬の吠え声や人間の怒鳴り声や叫び声のようなもの、焼却炉などの稼働音は響いてくる。また、ヘートヴィヒと友人が、収容所から届けられた遺品を、それが日常であるかのように分ける様子には、異様な空気が漂う。

あえて収容所の内部で起こっていることを描かず、音や気配で想像させるという表現には、確かに強烈なインパクトがある。しかし、本作で際立つ独自のアプローチはそれだけではない。本作で見逃せないのは、1943年11月にルドルフがアウシュヴィッツ収容所の所長を退任し、ドイツに戻って新たな任務に就いた事実が、強く意識されていることだ。

脚本は驚くほど緻密に作り込まれている

プレスのグレイザーのインタビューによれば、彼は脚本を書く前に2年間、ルドルフと妻子に関わる調査を行い、庭師や使用人からの証言を集めた。そして以下のように語っている。


「そのうちの1つに、戦争を生き延びた庭師が、ルドルフが転勤することについてヘートヴィヒが文句を言い、激怒した瞬間について語ったものがありました。彼女は夫に、当局が自分をこのアウシュヴィッツから追い出すことになると語っていました。これを映画の設定にしたいと考えたのです。この人事異動の時、彼女は丹精込めて作り上げたすべてのものを失うという脅威にさらされます」

本作の脚本は、ルドルフの転属という事実を強調するために、驚くほど緻密に作り込まれている。だから、日常を淡々と描いているように見えて、そこに複雑な心理が炙り出されている。

幸せそうな家族のドラマの意味

本作は、ヘス一家が湖畔で過ごすハイキングから始まり、ルドルフの誕生日を迎える。父親は子供たちからサプライズでボートをプレゼントされる。「行ってらっしゃい、パパ」という妻の挨拶に送られ、馬で隣の収容所に移動する。新しい焼却炉の売り込みにやって来た建設会社の重役を自宅に案内し、説明を受ける。さらに誕生日を祝うために将校たちが続々とやって来る。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ウクライナ大統領府長官が辞任、和平交渉を主導 汚職

ビジネス

米株式ファンド、6週ぶり売り越し

ビジネス

独インフレ率、11月は前年比2.6%上昇 2月以来

ワールド

外為・株式先物などの取引が再開、CMEで11時間超
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ガザの叫びを聞け
特集:ガザの叫びを聞け
2025年12月 2日号(11/26発売)

「天井なき監獄」を生きるパレスチナ自治区ガザの若者たちが世界に向けて発信した10年の記録

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 2
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体を東大教授が解明? 「人類が見るのは初めて」
  • 3
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 4
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 5
    「攻めの一着すぎ?」 国歌パフォーマンスの「強めコ…
  • 6
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 7
    エプスタイン事件をどうしても隠蔽したいトランプを…
  • 8
    子どもより高齢者を優遇する政府...世代間格差は5倍…
  • 9
    メーガン妃の「お尻」に手を伸ばすヘンリー王子、注…
  • 10
    筋肉の「強さ」は分解から始まる...自重トレーニング…
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 3
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネディの孫」の出馬にSNS熱狂、「顔以外も完璧」との声
  • 4
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 5
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
  • 6
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 7
    老後資金は「ためる」より「使う」へ──50代からの後…
  • 8
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 9
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 10
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story