コラム

フランスとイスラム原理主義の果てしない「戦争」の理由

2020年10月23日(金)15時30分

そこで問題となるのが、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画が、イスラム教徒に対するヘイトスピーチとみなされるのか否かということだ。この問題については、在仏イスラム教徒の団体が、ムハンマドの風刺画を掲載したシャルリエブド紙に対して何度か訴訟を起こしている。その一例が、下の風刺画の号である。

RTR1AIPI.jpg

2006年2月8日付シャルリエブド紙 REUTERS/Regis Duvignau

ここに描かれているのは、ムハンマドだ。左上のタイトルに、「イスラム原理主義者に忙殺されるモハメッド」と記されている。モハメッドは「馬鹿に好かれるのはつらい」と言って頭を抱えている。つまり、この風刺画が言わんとするのは、イスラム教徒の中に馬鹿な原理主義者のテロリストがいて、そのおかげであたかもイスラム教そのものがテロリストの宗教であるかのごとき偏見を持たれていることに対し、実はイスラム教の創始者であるムハンマド自身も嘆いているのではないかということだ。

これは非イスラム教徒にとっては、風刺や諧謔と受け止められるが、イスラム教徒にとっては、笑って済まされるものではない。それどころか、偶像崇拝を禁忌とするイスラム教徒にとっては、ムハンマドが具象化され戯画化されていること自体が、イスラムを冒涜し、イスラム教徒を侮辱していると映るわけだ。

しかし、この訴訟は、シャルリエブド紙側の勝利に終わる。裁判所は、この風刺画には、イスラム教徒を「直接かつ根拠なく侮辱するという確固たる意志」が認められないという判断を下し、イスラム教徒団体の訴えを却下した。つまり、ムハンマドの風刺画は、ヘイトスピーチに当たらないと判示したのである。この他にも同様の訴訟が提起されているが、ムハンマドの風刺画に関してはいずれもシャルリエブド紙側が勝訴しており、判例として定着している。

「宗教の冒涜」は許されるのか

そこで次に問題となるのは、たとえイスラム教徒に対する侮辱ではないとしても、イスラム教徒の禁忌とする偶像を描くことによって、イスラム教そのものを冒涜しているのではないかという問題である。すなわち、人の信じる宗教に対して、それを冒涜する言動・表現が、「表現の自由」の名の下で、許されるのかという問題である。

この問題に関わってくるのが、フランス独特の「ライシテ(政教分離)」という法原則である。フランス革命によって誕生した共和政の推進者たちが、その後長い間、王権と結びついていた教会の権力と影響力を排除する戦いを続けた結果、1905年にようやく、国家と宗教の分離を法制化(政教分離法)して以来、フランスでは、いかなる宗教に対しても国家は中立的な存在となり、また逆に、宗教の国家に対する支配をいっさい認めないという法原則が確立されている。

一方、個人の信仰の自由は、基本的人権の一つとして当然認められるが、人が宗教を信じることも信じないことも自由とされ、さらに人が宗教を否定することも冒涜することも、国家がこれを禁止することはできないという、徹底した政教分離の考え方が貫徹されている。したがって、フランスの法律には、「宗教の冒涜」という概念はない、とされる。つまり、フランスでは、「宗教の冒涜」は当然に許されるべき行為なのである。

このことは、つい最近も、マクロン大統領によって改めて、確認されている。同大統領は、9月4日にパンテオンで行われた第3共和政発足150周年記念式典で、共和国の理念に関する演説を行い、その中で、「表現の自由」と「ライシテ」について、次のように述べている。


「フランスでは、良心の自由に加え、ライシテも保障されています。この法原則は、世界でも他に例を見ない独特のもので、信仰する自由も信仰しない自由も保障していますが、表現の自由と密接不可分であり、神を冒涜する権利すら含まれるのです」(下線は筆者)

だが、ここでいう「神を冒涜する権利」とは、歴史的経緯として、キリスト教中心の社会において、その構成員がキリスト教を肯定するか否定するかという文脈の中で、形成され確立されたものであって、本来、イスラム教など他者の宗教についてまで踏み込んで冒涜することは想定されていなかったはずである。イスラム教徒からすれば、フランス人がキリスト教に関して「神を冒涜する権利」があることに異議を唱えるものではないが、イスラム教に関してまで「神を冒涜する権利」があると言われると、心穏やかであろうはずがない。

かつては、フランス社会の中に、イスラム教徒はほとんどいなかったので、特に問題となることはなかったが、今やフランス社会には数百万人ともいわれるイスラム系移民が存在する。そのことの自然の結果として、「神を冒涜する権利」がイスラム教にまで拡大適用されることになってしまったのだ。

かりに、こうしたフランスのルールを、フランス国民たるイスラム教徒に認めさせることができたとしても、フランス国民ではないイスラム教徒には通用しない。フランスでイスラム教が冒涜されたというニュースが伝われば、他国にいる多くのイスラム教徒によって弾劾される。そしてそれが、イスラム原理主義のテロに格好の口実を与える。

こうした不幸な悪循環の結果、フランスの理念とイスラム原理主義の「戦争」は、果てしなく続いている。

プロフィール

山田文比古

名古屋外国語大学名誉教授。専門は、フランス政治外交論、現代外交論。30年近くに及ぶ外務省勤務を経て、2008年より2019年まで東京外国語大学教授。外務省では長くフランスとヨーロッパを担当(欧州局西欧第一課長、在フランス大使館公使など)。主著に、『フランスの外交力』(集英社新書、2005年)、『外交とは何か』(法律文化社、2015年)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

金総書記が北京到着、娘も同行のもよう プーチン氏と

ビジネス

住友商や三井住友系など4社、米航空機リースを1兆円

ビジネス

サントリー会長辞任の新浪氏、3日に予定通り経済同友

ワールド

イスラエル予備役約4万人動員へ、軍高官が閣僚と衝突
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:豪ワーホリ残酷物語
特集:豪ワーホリ残酷物語
2025年9月 9日号(9/ 2発売)

円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代──オーストラリアで搾取される若者たちの実態は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体」をつくる4つの食事ポイント
  • 2
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 3
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シャロン・ストーンの過激衣装にネット衝撃
  • 4
    世界でも珍しい「日本の水泳授業」、消滅の危機にあ…
  • 5
    映画『K-POPガールズ! デーモン・ハンターズ』が世…
  • 6
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 7
    BAT新型加熱式たばこ「glo Hilo」シリーズ全国展開へ…
  • 8
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が…
  • 9
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 10
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動…
  • 1
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ女性が目にした光景が「酷すぎる」とSNS震撼、大論争に
  • 2
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 3
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動ける体」をつくる、エキセントリック運動【note限定公開記事】
  • 4
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体…
  • 5
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 6
    豊かさに溺れ、非生産的で野心のない国へ...「世界が…
  • 7
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 8
    脳をハイジャックする「10の超加工食品」とは?...罪…
  • 9
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 10
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 4
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 5
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 6
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 7
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 8
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 9
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 10
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story