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ヴィズマーラ恵子|イタリア

EU・メルコスール自由貿易協定の総括

Shutterstock-Alexandros Michailidis

長年の交渉を経て政治合意に至ったEU・メルコスール自由貿易協定は、関税撤廃による経済統合を掲げながらも、欧州農民と地球環境の双方にとって深刻な脅威として認識されている。2025年現在、批准プロセスが停滞している背景には、この協定がもたらす多層的な不利益への根強い反発がある。

| 農民経済への直接的な打撃 

協定が発効すれば、南米産の牛肉、鶏肉、砂糖、大豆、米が安価で大量にEU市場に流入する。ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアなどメルコスール諸国は広大な土地と低労働コストを活用して低コスト生産を拡大できる一方、EU農民は厳格な環境規制、衛生基準、動物福祉ルールを遵守しなければならず、構造的に不利な競争環境に置かれる。

牛肉輸入枠の年9万9000トン(関税7.5%)はEU全体生産量の約1.6%にすぎないように見えるが、この程度でも価格下落の連鎖反応を引き起こし、市場全体を圧迫する効果は極めて大きい。フランス、アイルランド、ポーランドなど畜産大国での農家経営は直接的な打撃を受け、家族経営の小規模農家は特に危機に瀕する。

売上減少から農場倒産や雇用喪失が広がり、地方経済の空洞化につながる危険性は現実的である。鶏肉や砂糖でも同様の事態が予想され、ブラジル産の安価な商品が棚を埋め尽くせば地元農家の売上は急激に落ち込む。

過去のウクライナ穀物輸入による価格崩壊の記憶が農民の心に鮮明に残っているため、EU執行委員会への信頼は完全に失われている。農民団体は協定を「欧州農業の破壊」と呼び、「農民の死刑宣告」と非難している。この不公正な競争条件に対する怒りは、単なる経済的利益の問題ではなく、EUが掲げるべき価値観とのズレにもある。EU農民は「自分たちは高い基準を守って苦しむのに、南米産は基準を無視して安く売れるのか」と激しく憤っている。

| 深刻化する畜産危機と政策への反発

フランスを中心とした農民の不満は、メルコスール協定だけにとどまらない。2025年6月からの結節性皮膚病(LSD)のアウトブレイク(113件確認、3300頭屠殺)に対するフランス政府の厳格な対応政策が、新たな火種となっている。

EU規制に基づき、感染が確認された農場では全群殺処分する政策が採用され、わずか1頭の感染で数百頭の健康牛も含めて屠殺されることになった。政府は病気の拡大防止と輸出維持が目的だと説明し、100万頭の追加ワクチン実施と補償を提供しているものの、農民たちは「過剰で残酷」と反発し、ワクチン優先的な対策を強く求めている。

この全群殺処分政策は、既に経営危機に直面していた農民たちにさらなる経済的打撃を与えた。同時にメルコスール協定による南米産安価畜産物の流入増加という二重の脅威に晒されることで、フランスの畜産農家の絶望感は極限に達している。道路封鎖や肥料散布による抗議活動の拡大は、単なる一つの政策への反発ではなく、積み重なる危機への総合的な怒りの表現なのである。

| 環境・気候危機への深刻な矛盾

一方、協定はEUが推進するグリーン・ディール(気候変動対策と持続可能農業)の根底を揺るがす存在である。発効後わずか5年で、62万から135万ヘクタールのアマゾン熱帯雨林が失われる可能性が環境影響評価で指摘されている。牛肉と大豆生産拡大による土地転用で、地球の肺とも呼ばれる森林が容赦なく切り開かれ、炭素吸収機能が喪失される。

この結果、地球規模の炭素排出が増加し、気候変動が一層激化する危険性は高い。アマゾンの生態系破壊は生物多様性の宝庫を急速に消滅させ、土壌劣化を進行させ、先住民コミュニティの生活基盤を根底から揺るがす。アマゾンという人類共有の財産が、目先の経済利益のために失われることになるのだ。

さらに深刻なのは「ブーメラン効果」と呼ばれる現象である。メルコスール諸国ではEUで禁止された有害農薬が日常的に使用されており、貿易量増加に伴い残留農薬を含む食品がEU市場に堂々と流入する。EU自らが掲げる厳格な衛生基準の維持と矛盾する事態が生じ、消費者の健康リスクも懸念される。協定の持続可能な開発章ではパリ協定遵守や森林保護を謳うが、強制力に欠け実効性が疑わしいという指摘が多い。

環境団体やNGO、科学者たちは、アマゾンの生態系が転換点を迎え、回復不能なダメージを受けるリスクを繰り返し警告している。EU側が再均衡メカニズムで影響を抑えられると主張しても、環境コストが貿易利益をはるかに上回るという見方が優勢である。EUの気候中立目標とこの協定は正面から衝突しており、EU自らが気候変動対策のリーダーとして世界にアピールしてきたという矛盾が露呈している。

| 社会的不満の爆発と政治的反発

2025年12月のブリュッセルデモはこうした多層的な不満が臨界点に達した象徴である。メルコスール協定への経済的脅威、LSD対策としての殺処分政策による直接的な被害、そして環境危機への懸念が相互に作用する中で、農民たちの怒りは爆発した。

数千人の農民がトラクターで欧州議会周辺を封鎖し、ジャガイモや卵を警察に投げつけ、花火を打ち上げ、タイヤを燃やす激しい騒乱に発展した。警察は催涙ガスと放水砲で対抗し、衝突がさらに激化した。農民たちは「EUはグローバル貿易を優先し、農民の生活を犠牲にしている」と叫んだ。

フランスのマクロン大統領、イタリア、ポーランド政府が批准延期を求める声が上がり、極右勢力も農民不満を政治的に利用している。社会的分断が深まる危険性は日増しに高まっている。

| 批准プロセスの停滞と今後の課題

協定の批准には加盟国とEU議会の同意が必須である。農民団体、環境団体、NGOの強硬な反対により、2025年末の署名すら危うい状況が続いている。政治合意は得られたものの、実際の批准プロセスは停滞しているのが現状だ。

農民と環境団体の抗議は単なる経済問題にとどまらず、EUが掲げる持続可能性と公正という根本的な価値観そのものを守る闘いである。中国依存脱却やEU輸出拡大といった戦略的メリットは確かに存在するが、地球規模の気候危機を加速させ、アマゾンという人類共有の財産を犠牲にする代償は極めて大きい。同時に、域内の畜産農家に追い打ちをかける政策の矛盾も見直す必要がある。

EUが農民と環境保護の声を無視すれば、さらなる内部分断を招くだけである。協定がもたらす多層的な不利益を直視し、強制力のある環境条項の大幅強化と真の持続可能性を優先した抜本的な再考が不可避な時を迎えている。ブラジル大統領ルラが森林保護に取り組む姿勢を示しても、協定が生産インセンティブを与えれば矛盾は避けられない。

貿易の恩恵を追い求めるあまり、地球の肺を失う愚を犯してはならないのだ。

 

Profile

著者プロフィール
ヴィズマーラ恵子

イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie

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