コラム

ドイツ哲学界のスター:ビョンチョル・ハンの「疲労社会」を考える

2021年09月29日(水)15時00分

自由が生み出す「強制」

うつ病や燃え尽き症候群のような心理的障害は、自由に対する深い危機の症状だとハン氏は指摘する。かつてドイツの社会心理・哲学者エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』(1941年)を著した。フロムは、20世紀初頭、資本主義と自由を謳歌した人々が、責任がともなう「自由」から逃げはじめ、連帯や従属感という安定を求めナチズムという全体主義に服従していったと指摘した。

フロムの分析とは異なり、現代の自由は、しばしば自主的な「強制」に変わる病的なシグナルであるとハン氏は考える。私たちは皆、生活を営むことは自由だと思っている。しかし、実際には自他のために自由を貫くことは、倒れるまで情熱的に自分を搾取していくことに転移する。その過程で、自由な個人は率先して自らを不自由に追い込んでいく。私たちは自分自身を実現し、死に至るまで自分を最適化することに明け暮れるのだ。

ハン氏は、新自由主義を批判する際に「達成主義」と呼ぶ政治経済論理を解説する。達成主義は、持続的に私たちを先へと進ませる。いったん何かを達成すると、さらに次の達成をめざし、自分より先に進みたくなる。しかし、当然のことながら、自分よりも先に進むことは不可能なのだ。

この不条理な論理は、最終的には破綻を招くことになる。達成の主体は、自分が自由であると信じているが、実際には自身による奴隷化なのだ。支配者がいなくても自発的に自分を搾取する限り、それは自由の奴隷なのだ。

新自由主義という心理的搾取

ハン氏は、チェコ出身の作家フランツ・カフカを引用し、自分が主人だと思っている「奴隷の自由」というパラドックスを明確に表現した。動物は主人から鞭を奪い、主人になるために自分自身に鞭を打つ。この永続的な自虐行為が、私たちを疲れさせ、最終的には鬱にさせる。ある意味で、新自由主義は自虐史観に基づいているとハン氏は指摘する。

新自由主義がめざす達成社会は、規律や支配、そして懲罰がなくても搾取を可能にする。フランスの哲学者ミシェル・フーコーが『規律と罰』(1975年)の中で分析したような、懲戒や禁止事項にもとづく身体的な規律社会では、今日の達成社会を説明できない。ハン氏は、フーコーが分析した規律社会や監視社会の力学を超えて、自主的に人々がめざす達成社会こそ、権力が私たちの身体を梗塞させる以上に、心理的な自由を搾取する。ハン氏は、露骨な制限や監視に頼るより、自由こそが望ましい支配のメカニズムであると主張する。

自ら率先してソーシャルメディアに自身や友人関係のデータ・プライバシーを提供し続け、自身をテック巨人のマネタイズのための奴隷にしてしまう自己搾取こそ、他者による支配や搾取よりも効率的である。

「燃え尽き症候群」は主に欧米や日本、韓国などの新自由主義社会に広がった。しかし、ソーシャルメディアを通じて、新自由主義的な生活形態は今や第三世界にも広がっている。ソーシャルメディアが誘導するネット・エゴイズムやナルシシズムの台頭は世界的な現象である。

ソーシャメディアとZOOM疲れ

ソーシャルメディアは、私たちを、自分自身でビジネスをする生産者、起業家への幻想に導く。同時に、リアルなコミュニティを破壊し、本来の社交空間や公共空間を無用のものに変え、自我の自由と達成主義をグローバル化する。ソーシャルメディアは、自分自身を生産し、自分自身を持続的に表現し、展開していくためツールなのだ。SNSでの自己生産、つまり自我の継続的な「展示」こそ、私たちを疲れさせ、憂鬱にさせるとハン氏は指摘する。

パンデミックの間、自由にもとづく仕事の環境は、ホームオフィスという新しいステージを得た。ZOOMでつながったホームオフィスでの仕事は、オフィスでの仕事よりも疲れるとハン氏は次のように述べる。

「私たちは自分自身と向き合い、常に自分自身について考え、推測しなければならない。根本的な疲れは、究極的には自我の疲れに至る。ホームオフィスは、私たちをより深く自分自身に集中させ、疲労を強めていく。問題なのは、自分のエゴから気をそらすことができる他者がいないことなのだ」

対話のベンチ

ベルリンで人気の公園「パーク・アム・グライスドライエック」では、パンデミックの間に市民の「対話」や「おしゃべり」が極端に少なくなったことを憂慮し、参加型アクションの一環として、公園利用者の会話を促進する「対話のベンチ」を設置した。これにより、さまざまな市民との交流が可能な、敷居の低い空間が生まれた。「対話のベンチ」のプレートには、「会話に入りませんか?おしゃべりしましょう!」と明記されている。

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ベルリンの人気の公園「パーク・アム・グライスドライエック(Park am Gleisdreieck)」に設置された「対話のベンチ」。©Park am Gleisdreieck

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対話のベンチのプレートには、「会話に入りませんか?おしゃべりしましょう!」と明記されている。© Grün Berlin、Vivien Franck


私たちは、社会的な接触、ハグ、身体的な接触がないために疲れてしまう。隔離された状態では、リアルな他者との会合や対話こそが「癒し」なのかもしれないと気付き始める。ウイルスは、他者の消滅を加速させているのだ。

社会的距離を置くことは、これまで当たり前だった社会生活を解体することになる。それは私たちを疲れさせ、他の人々は、物理的な距離を保ち続けるウイルスの潜在的な保有者とみなされる。現在ベルリンでは、レストランやカフェに入るときに、ワクチン接種証明アプリか48時間以内のPCR検査の陰性証明書の提示が必要となっている。事実上、ワクチン・パスポートを所持していない人は、ワクチンを打たない自由と引き換えに、現実空間での自由を極端に制限されることになる。

リアルなコミュニティ文化の再生

ウイルスは、私たちの現在の危機を増幅させ、すでに危機に瀕していた現実のコミュニティを破壊している。ウイルスは、私たちを互いに疎外させる。かつてのリアルな社交文化は、ロックダウン中に真っ先に切り捨てられた。ベルリンのクラブ、コンサート、演劇、パフォーマンス、映画館、美術館ですら、ロックダウンの犠牲となった。

ハン氏は最近、独立ジャーナリズムとして知られるThe Nationに『疲労のウィルス』という記事を寄稿し、Covid-19が、私たちを集団的な疲労状態に追い込んでいると主張した。その中で、文化とは何かを再考し次のように延べている。

「文化はコミュニティを生み出すものである。それがなければ、私たちはただ生き延びるためだけの動物のようになってしまう。この危機から一刻も早く回復する必要があるのは、経済ではなく、何よりも文化、つまりコミュニテイにもとづく生活なのだ」

プロフィール

武邑光裕

メディア美学者、「武邑塾」塾長。Center for the Study of Digital Lifeフェロー。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。インターネットの黎明期から現代のソーシャルメディア、AIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。2013年より武邑塾を主宰。著書『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。このほか『さよならインターネット GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)などがある。新著は『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』(黒鳥社)。現在ベルリン在住。

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