最新記事

アメリカ

「国民皆保険」に断固抵抗してきたアメリカ医師会のロジック

2021年2月10日(水)16時30分
山岸敬和(南山大学国際教養学部教授)※アステイオン93より

NanoStockk-iStock.


<アメリカニズムの精神にのっとり、第二次大戦後の経済成長もあって、民間の力で皆保険にしていくべきだという論調が強くなったが、その後、景気の低迷で無保険者が増えていく。しかし医師会は皆保険に抵抗した。論壇誌「アステイオン」93号は「新しい『アメリカの世紀』?」特集。同特集の論考「アメリカニズムと医療保険制度」を3回に分けて全文転載する(本記事は第2回)>

※第1回:「国民皆保険」導入を拒んだのは「アメリカニズム」だった より続く

ニューディール期、第二次世界大戦期の挫折――全体主義の否定

労働者の4分の1以上が失業したという大恐慌は、アメリカの政治文化や政治制度に大きな影響を与えた。それまでは州レベルで不況対策を行なうべきだとしてきたものが、連邦政府に解決策を求める声が強まっていった。それまで自由の概念は政府権力からの自由を求める消極的自由が伝統であったが、それに加え、個人の本当の自由を保障するためには連邦政府の関与が必要だという積極的自由の概念が現れた。

フランクリン・ローズヴェルト大統領は、産業の生産統制を実施し、公共事業を起こすなどして雇用を創出し、労働時間を短縮し最低賃金を定めるなどの対応策を実施した。その中で、社会保障制度の拡充も重要政策となった。1935年には、高齢者年金、失業保険、児童扶養扶助などが含まれた社会保障法が成立した。しかしここに医療保険は含まれなかった。ローズヴェルトの政治判断だった。

多くの研究者たちはアメリカ医師会の反対をその理由として挙げる。医師は地域の名士であることが多く、患者のみならず地域社会への影響力もあった。それに加え、アメリカ医師会は各州に強固な組織を持っており、議員に政治的圧力をかけやすかった。しかし、アメリカ医師会が強力な影響力を持つに至った要因として見逃してはならないのは、そのレトリックである。

アメリカ医師会はローズヴェルト政権の医療保険政策案を「社会主義的医療(socialized medicine)」として絶対反対の姿勢を取った。アメリカの伝統的価値とは相入れない危険な思想に基づいた政策であると世論に訴えたのである。ローズヴェルトは社会保障法の早期の成立を優先し、医療保険をそこから除外することを選んだ。

間もなく第二次世界大戦というさらなる国家危機が訪れた。この戦争は未曾有の戦時動員をもたらした。いわゆる総力戦の中では、国家の全ての人的・物的資源が戦争のために動員され、社会的階層に関係なく全ての人々に平等に犠牲を払うことを求める。したがって、総力戦においては富の再分配を伴う政策が行われる。さらに、アメリカ市民の健康をめぐる政策が国防政策の一部になった。市民の健康は、軍隊、軍需産業、そして銃後の支えを強化するために重要になった。その中で皆保険の成立を含む医療制度改革の必要性が唱えられた。

アメリカにおいて、第二次世界大戦は医療に対する国家の関与を大幅に拡大させたが、その程度は日本やイギリスと比べて限定的だった。それはアメリカが戦った戦争は、前大戦と同様アメリカの伝統的価値を守るというイデオロギー的色彩が強かったからである。ローズヴェルトは1940年、アメリカは「民主主義の兵器廠」になると訴えて以降、繰り返し世界の自由や民主主義を守るために戦うことを強調した。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国万科、債権者が社債償還延期を拒否 デフォルトリ

ワールド

トランプ氏、経済政策が中間選挙勝利につながるか確信

ビジネス

雇用統計やCPIに注目、年末控えボラティリティー上

ワールド

米ブラウン大学で銃撃、2人死亡・9人負傷 容疑者逃
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
2025年12月16日号(12/ 9発売)

45年前、「20世紀のアイコン」に銃弾を浴びせた男が日本人ジャーナリストに刑務所で語った動機とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の展望。本当にトンネルは抜けたのか?
  • 2
    香港大火災の本当の原因と、世界が目撃した「アジアの宝石」の終焉
  • 3
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 4
    南京事件を描いた映画「南京写真館」を皮肉るスラン…
  • 5
    身に覚えのない妊娠? 10代の少女、みるみる膨らむお…
  • 6
    極限の筋力をつくる2つの技術とは?...真の力は「前…
  • 7
    トランプが日中の「喧嘩」に口を挟まないもっともな…
  • 8
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 9
    大成功の東京デフリンピックが、日本人をこう変えた
  • 10
    世界最大の都市ランキング...1位だった「東京」が3位…
  • 1
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 2
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出を睨み建設急ピッチ
  • 3
    デンマーク国防情報局、初めて米国を「安全保障上の脅威」と明記
  • 4
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 5
    【クイズ】「100名の最も偉大な英国人」に唯一選ばれ…
  • 6
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 7
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア…
  • 8
    人手不足で広がり始めた、非正規から正規雇用へのキ…
  • 9
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」…
  • 10
    首や手足、胴を切断...ツタンカーメンのミイラ調査開…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 5
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 6
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 10
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中