【べらぼう解説】大田南畝が蔦重を招いた「連」とは? 江戸の出版ビジネスの要となった文化人サロン
既存のネットワークを組み合わせて 新しい文化を生み出す
先述したように、蔦屋重三郎が活躍した天明の頃は狂歌が大流行した時代です。「天明狂歌」とも呼ばれますが、狂歌は五七五・七七で完結しますから、複数の人間で集まらなくてもできなくもない。けれども、歌合も俳諧連句も集まって行うものだという概念が江戸の人々にはあり、狂歌もまた、複数の人間が集まり、「連」となって行われました。やがて、各々の狂歌連で、その場限りに詠み捨てられていた狂歌のなかでも優れたものを狂歌集として本にまとめるようになります。蔦屋重三郎も他の版元からやや遅れて、狂歌集作りに参入するようになります。
蔦屋重三郎が作った狂歌集のなかでも特徴的なのは、ただ文字だけの狂歌集でなく、才能ある絵師たちを起用して、絵入りの狂歌集を作った点でしょう。狂歌師たちをあたかも平安時代の歌人に見立てて、まるで百人一首のような構図で山東京伝が描き、『吾妻曲狂歌文庫(あづまぶりきょうかぶんこ)』という狂歌集にして出版したのです。まさに平安時代の貴族文化の「やつし(パロディ)」です。
また、1788(天明8)年には、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』という絵入りの狂歌本を刊行していますが、この挿絵を担当したのが、喜多川歌麿です。同書は狂歌本というよりも、歌麿の画集としてよく知られていますが、歌麿は蔦屋から何冊もの絵入り狂歌本を出したことをきっかけに、やがて名が知られていくようになります。これは、美人画を描く以前の歌麿の作品ですが、見事な観察と写生の技量がうかがえ、また彫りや摺りの技術も素晴らしい。腕のある絵師と職人と狂歌師たちが結集して作られた優品です。
狂歌師にとっても、浮世絵師にとっても、絵入り狂歌本は非常に重要なジャンルになっていたと言えます。これはただ単に、優れた狂歌師と浮世絵師がいたというだけでなく、狂歌師のネットワークと浮世絵師のネットワークという、二つの既存のネットワークをうまく交差させ組み合わせていったのが、まさに蔦屋重三郎の手腕だったのです。蔦重は、江戸に生まれたさまざまな「連」の在り方を十分に使いこなしながら、新たな「連」を生み出していったと言えるでしょう。
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