【べらぼう解説】大田南畝が蔦重を招いた「連」とは? 江戸の出版ビジネスの要となった文化人サロン
俳諧連句が生み出した「連」
人と人を繋ぐネットワークであり、さまざまな人々が集ったサロンのような場こそが、江戸時代における「連」を形成していきます。
この「連」というものは、まず基本的な人脈が非常に重要です。しかも、それはただ単に個人的な友人付き合いというものではなく、蔦屋重三郎のような出版業者を中心にして集まってきたところに、大きな特徴があると思います。
天明の頃には、大田南畝を中心にしていくつかの狂歌の連が発足していきます。その狂歌連に蔦屋重三郎も「蔦唐丸(つたのからまる)」という名で入っていきました。蔦重にとっては明らかに、自分が狂歌をやるよりも、狂歌連に集まる才能のある者たちの出版物を扱うことが目的でした。実際、こうして知遇を得た狂歌師たちの本を蔦重は出版しています。大田南畝や朋誠堂喜三二、恋川春町らは、狂歌師であると同時に戯作者でもあり、彼らの洒落本や黄表紙も、蔦重は手がけていくのです。
ですから、蔦屋重三郎を取り巻く「連」とは、まず蔦重が吉原で仕事を始めたときから元々存在していた連と、狂歌が流行した天明の頃の狂歌師たちを中心にした連との、大きく分けて二つの流れがあったのではないかと思います。
蔦屋重三郎が活躍する以前、絵暦(えごよみ)の会というものがありました。1765(明和2)年の頃です。絵暦の会とは、いわばカレンダーを作る集まりです。その会を通じて、それまでモノクロだった浮世絵がカラー化するのです。それまで手塗りだった彩色が、技術革新によって多色摺りの印刷が可能になります。ここに平賀源内が関わり、鈴木春信が下絵を担当したりしています。
私はこの絵暦の会とは、一つの連だったと考えています。平賀源内は、讃岐から江戸へと出てきて、さまざまな連を作った人物です。彼は本草学者ですから、全国に本草学のネットワークを作り、動植物の情報を収集していたのです。そのような人物が絵暦の会という連にも出入りし、そのなかから、多色摺りの浮世絵が生み出されていきました。また、連の成立に大きく寄与したのが、私の推測では「俳諧」だったと思います。
江戸時代には、私たちがよく知る「俳句」というものは存在しません。中世から日本の詩歌のベースとなっていたのは、「俳諧」の連句でした。俳諧の場合、複数の人間が集まって行われます。主客の者が、五七五の発句を作ると、他の人間がそれに七七をつけます。さらに別の人間が、五七五をつけていく、というように句を連ねていくのが俳諧の連句です。明治20年代頃までは、この連句が俳諧の基本でした。現代の俳句のように、連句の第一句目が独立して詠まれるスタイルは、むしろ特異なバリエーションです。俳諧の場合、複数の人間が集まる場所を「座」と呼びましたが、文化自体、そのように集団で作られるものだったのです。
こうした俳諧の座が、絵暦の会へと連なっていき、多色摺りの浮世絵という新しい文化が発展していきました。浮世絵製作には絵師だけでなく、彫り師や摺り師といった職人たちの存在が欠かせませんが、どの職人の腕が立つのか、そうした情報のやり取りも、「連」を通じて行われていただろうと思います。