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音楽社会史

映画《東京オリンピック》は何を「記録」したか

2015年12月25日(金)15時22分
渡辺 裕(東京大学大学院人文社会系研究科教授) ※アステイオン83より転載

 そう考えると、伴奏の音楽の方もまた、入場行進のシーン全体をまとめ上げるべく緻密に計算されていることがわかる。あらためて聞いてみると、この間、曲はずっと通して流れており、途中で切ってつないでいるのは一箇所だけである。そして、別の曲に変わる部分では太鼓の打奏が挟み込まれ、スムーズにつながるように工夫されている。アメリカ、ソ連の両チームが続いて登場する前と日本チームの登場の前のところにだけこの太鼓の打奏がはいっており、それを境に、アメリカとソ連の部分だけ、最初から続いてきた《オリンピック・マーチ》が《旧友》に変わって雰囲気が一変し、最後の日本の登場シーンで再び《オリンピック・マーチ》に戻ることでクライマックス感を高める、というつくりになっているのである。音楽とアナウンスを武器に全体にメリハリがつけられ、一つにまとめ上げられているわけだが、いわばその代償として、音楽もアナウンスも「実況」とはかけ離れた「つくりもの」になってしまったのである。

 こうした状況をみるにつけ思い出されるのは、この映画をめぐって起こった「芸術か記録か」論争のことである。試写会でこの映画をみた河野一郎オリンピック担当大臣が、芸術的すぎて記録性を無視したひどい映画と酷評したことをきっかけにおこった大騒動である。「芸術」を追求するあまり記録性を無視した「つくりもの」になってしまったというのはこういうことだったのか、と思わず考えてしまいそうだが、実はそういうわけでもない。

 河野大臣の一言をきっかけに、市川作品とは別に「記録」重視の映画がもう一本作られ、一九六六年五月に《オリンピック東京大会 世紀の感動》として公開されたのだが、こちらの方もつくりは大同小異なのである。伴奏の行進曲は、こちらでもやはり音楽としてひとつながりに流れることを優先させており、実際のものとは全く一致していない。しかも、アメリカのシーンで《旧友》が登場し、最後の日本で《オリンピック・マーチ》が戻ってくるところまで同じであり、基本的に市川監督と同一線上で作っていることは明らかだ。実況アナウンスは、鈴木文弥アナではなく、テレビ中継を担当した北出清五郎アナの声だが、やはり当日のものとは違う台詞をあらためてかぶせている。

 こうした事態が「やらせ」や「つくりもの」ではなく「記録」の正当なあり方として許容されていたのは、「記録」の考え方自体が今とは違っていたからにほかならない。「記録か芸術か」論争では、今村太平を筆頭に、記録映画の世界の中からも、市川の「記録」観を厳しく批判する声は多かったのだが、試合の勝敗やスポーツの本質に関わらない場面が続くことへの批判がほとんどで、「やらせ」批判のようなものはほとんどなかった。

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