いい文章を書くなら、絶対に避けるべき「としたもんだ表現」の悪癖
次は、全国紙に載った書評の一部だ。
〈そもそも何故キリンの首は長いのかという疑問から出発し、最もキリンに近い動物がオカピであることを教えてくれて、大型動物の解体・骨格標本作成を通して未知の世界の扉を開けてはわかりやすく説明してくれる。
著者と共に解剖学の論文を読み解き、世紀の大発見につながる研究テーマを獲得するくだりは、非常にワクワクした。郡司さんのキリンへの愛が本からこぼれ出てくるようで、愛しい気持ちもお裾分けしてもらった。〉
ここにいわゆる「常套句」はいくつあるだろう。常套句はない、と思う読者もいるだろう。しかし、わたしだったら、推敲の段階で「この表現は削るか、再考する」という箇所が、短い文章に少なくとも五カ所ある。
・未知の世界の扉を開けては
・世紀の大発見
・非常にワクワクした
・愛が本からこぼれ出て
・愛しい気持ちもお裾分け
たしかに、文意は通じている。よく見る表現でもある。ひとつひとつを解説しないが、たとえばいちばん簡単な「非常にワクワクした」。第5発で述べるとおり、ワクワクするという擬態語の使用に疑問符がつくのは当然として、ワクワクの前の「非常に」が、わたしにはひっかかる。ワクワクするときは、必ず、いつでも、「非常に」ワクワクするものではないのだろうか。強調の形容語とセットになって使うことが常套的になっているのではなかろうか。
■「としたもんだ表現」――小手先で片づける怠慢な文章
もう一歩進む。常套句とは、「美しい海」「燃えるような紅葉」という、ありきたりな形容や比喩表現だけではないことに注意が必要だ。常套句の派生として、「としたもんだ表現」というのもある。
〈年末の東京・表参道。都内の私立大3年の女子大学生(21)は、イルミネーションの中、黒いリクルートスーツ姿で歩いていた。〉
全国紙の新年連載で、第一回を飾った文章の書き出しだ。新年の新聞一面に載る大型連載というのは、記者にとって晴れがましい舞台であり、どんな新聞でも、もっとも力を入れる記事である。その書き出しが、冒頭の一文だ。
記者はもちろん、「デスク」といわれる文章の直し役も、見出しを付ける整理記者に校閲記者、社会部長や編集局長ら新聞社幹部、多くの人間が目を通して、この文章になったのだ。
わたしはこれを、「としたもんだ表現」と呼んでいる。新聞の、ストレートニュースではなく、読みものとしてのルポルタージュは、こうやって書き出す「としたもんだ」。そういう共通認識が、記者のあいだである。その、典型的な例という意味である。新聞とは、そうしたもんだ。読みものはこうやって書き出すとしたもんだ。新聞業界の長年の手癖のような文章だ。