コラム

紛争と感染症の切っても切れない関係──古くて新しい中東の疫病問題

2020年03月26日(木)17時45分

湾岸産油国での移動の制限は、これらの国の人口の4~7割を占める外国人労働者にも大きな影響を与えている。カタール航空は200人のフィリピン人を解雇し、エミレーツ航空はパイロットに無給の休暇を取るように促した。外国人労働者の感染も深刻で、カタールでは外国人労働者が居住する宿舎棟1カ所でいっぺんに238人の感染者が出た。湾岸諸国ではMERS(中東呼吸器症候群)の経験が衛生管理システム拡充に活かされるのでは、との説もあるが、貧しく疎外された外国人労働者の手が届くものではない。

さらには、誰もが懸念しつつも無策のまま放置されているのが、難民である。まだ戦闘状態が続いているシリアでも感染者が確認されているが、人口の3分の1を占める国内避難民への感染対策がなされているとは思えない。イエメンでは、内戦開始以降コレラなどさまざまな伝染病の蔓延や飢餓に悩まされており、すでに医療崩壊状態にある。新型コロナ感染者がいるであろうことは容易に想像がつくのだが、WHOは感染を認めていない。

新型ウイルスの発生は自然災害だが、疫病の蔓延は人災によるところが大きい。そして、これほど政治がフル回転で作用する現象は、ない。トランプ大統領が新型ウイルスを「中国」ウイルスと名指ししたことは、まさに感染症をめぐる問題が政治対立に利用されることをよく示しているが、似たような例は、中東でも見られる。

不毛な陰謀論

まずは、米・イラン関係。新型コロナウイルス蔓延以前の国際社会の最大の懸念は、米・イラン関係の緊張化だったが、新型コロナをめぐっても両者の舌戦が繰り広げられている。3月13日、ロウハーニ・イラン大統領は世界に支援を求める発言を行ったが、そこでは「アメリカが制裁を科しているから」と、アメリカに苦言を呈することを忘れなかった。一方で米国務省は、「イラン政府は爆発的感染にも関わらず、対策をとるばかりか情報を隠蔽し、逆に感染拡大を促すようなことばかりやっている」としてイラン政府を非難しつつも、必要なら支援する準備がある、と申し出た。

これに対してハメネイ最高指導者は、3月22日に行った演説で、以下のようなアメリカ陰謀論を展開した。いわく、「ウイルスはアメリカがイラン人の遺伝子情報を利用するために、特にイラン向けに作られたものである......アメリカは医者だの心理セラピストなどをイランに送り込んで、この毒がどれだけ効果を持つかを確認しようとしているのだ」。

不毛な陰謀論の舌戦ばかりのようにも見えるが、その一方で水面下で動いているのが拘束者の解放交渉である。今年の2月までに、アメリカ人4人、イギリス人3人、フランス人3人、オーストリア人2人、カナダ人1人などがイランで逮捕、拘束されていた。これらの拘束者の出身国政府は、感染拡大のなかでの自国民の身の安全を訴えてイランに釈放を求めたが、それは国際的に孤立するイランにわずかな交渉の可能性を開くことになっている。19日にはイラン系英国人の支援活動家と、恋人を訪ねにイラン入りして拘束されていた元米兵が釈放され、21日にはフランス人の研究者がフランスで逮捕されていたイラン人エンジニアとの交換で釈放された。解放交渉を揺さぶることで、対イラン制裁への欧米諸国の足並みの乱れを狙っているのだろう。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ロシア、イラン・イスラエル仲介用意 ウラン保管も=

ワールド

イラン核施設、新たな被害なし IAEA事務局長が報

ビジネス

インド貿易赤字、5月は縮小 輸入が減少

ワールド

イラン、NPT脱退法案を国会で準備中 決定はまだ
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロットが指摘する、墜落したインド航空機の問題点
  • 2
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 3
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 4
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 5
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 6
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 9
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 10
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 9
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story