コラム

日本のオフィス仕事では、どうして「原本」が大事なのか?

2012年06月13日(水)09時49分

 先週ワシントン・ポスト紙(電子版)に「日本ではファックスが今でも健在。理由は言語と文化のため」という記事が掲載されていました。

 この記事自体は、その原因として「コンピュータが日本語に対応していないから」とか「旧電電以来の保守性のためブロードバンドの通信費が高価なため」などという指摘をするなど、やや的外れな解説も含まれており、気軽に書いた「異文化レポートもの」の域を出ないものでした。

 ですが、確かに日本では他の先進国に比較してファックスが健在ですし、それ以外にもなかなかペーパーレスが進まないなど、オフィス仕事には非効率なところがあります。同じ記事では、日本には大変に効率的な部分と、スローで非生産的な部分とがあり、いわば「2つの日本」があるとした上で、オフィス仕事に関しては後者だと指摘しています。確かに的を得た批判と思います。

 勿論、日本でも改善が進んでいないわけではないわけで、社内外におけるコミュニケーションでは電子メールの活用も進んでいるわけですし、最近では電子稟議システムなどというものもあるわけです。行政でも登記簿システムや戸籍の電子化などが進んでいます。

 ですが、根本のところで、どうしても日本のオフィス仕事では「紙」それもオリジナルである「原本」というのが大切とされるわけで、この点に関しての変化は遅いようです。そして、一部の業界ではメールよりもファックスが重宝されるのには、この点があると思います。抽象的な電子信号であるメールよりも、「現存しているファックスの紙」の方が「原本」に近いからです。

 ではどうして日本では「原本」が重要視されるのでしょう?

 背景には、日本のカルチャーというのは「目に見える(タンジブル)」なものの取り扱いは得意だが、「目に見えない(インタンジブル)」なものの取り扱いは苦手という特徴があると思います。浮世絵から現代美術、マンガに至るビジュアルアートの伝統は豊かであるのに、哲学や思想に関しては国際的な影響力を持つものは生んでいないとか、産業においてもハードウェアにやたらにこだわってソフトの価値は軽視しているというのもこの特徴を表しています。

 目に見えない「信頼」とか「理解」、つまり英語で言う「ミューチュアル」なという概念が非常に弱い一方で、目に見える「契約書」とか「議事録」など、それも「写し」や「控え」ではない「原本」に異常に執心するというのも、こうしたカルチャーの影響だと思います。原発事故をめぐる混乱の中で、「議事録がなかった」とか「改ざんされた」ということが大騒ぎになったのがいい例です。

 つまり、いかに公職にある人間の公の場の発言であっても、口に出しただけでは「オフィシャルな発言」として絶対的な重みを持つのでは「ない」わけで、目に見える「議事録」の「原本」に記載されないと効力を持たないわけです。

 こうした点は本質的なカルチャーの問題ですから、一朝一夕には変わらないのかもしれません。ですが、「原本」に固執するあまりに事務が非効率になっているという問題には、もっと直接の原因があるのです。

 まず、法律がそうなっているということがあります。先ほどの議事録問題もそうですが、そもそも日本の社会では様々なところで「原本」の提出が求められます。日本国籍であることを証明するためには戸籍謄本(抄本)を出せとか、重要な取引の印鑑は実印でそこに印鑑証明をつけろとか、居住を証明するためには住民票を出せとか、色々な「しばり」があるわけです。

 こうした「証明書」に関しては、「コピーでも構わない。その代わりに捏造がバレたら厳罰」という制度でも不正は防止できると思うのですが、どうしても「原本」を出さねばならないという運用が多いのです。法律で決められている場合もあります。どうしてかというと、そこに行政の「権限と収入源」があり、行政としては手放したくないからだと思います。

 行政の収入源というとことでは、印紙税の存在があります。純粋に民間の商取引でも、3万円以上の領収書には収入印紙を貼れというのは法律で決まっているわけですし、契約書に関しては1万円以上の場合は印紙が必要です。この印紙税というのは、アメリカに住んでいますと、それこそ英国が北米植民地に印紙税をかけようとしたことへの反発のが、独立戦争の要因の1つであったぐらいで、以降は存在していないわけですが、日本の場合は特に大きな批判もなく続いているわけです。印紙税制というのは税収になる一方で、印紙を貼った「原本」にこだわる文化を強く支えているとも言えます。

 こうした法律や制度というものが、ビジネスにしても行政サービスにしても、「原本」を要求し、それが事務の効率化を阻害しているわけです。また、「原本」への過度の依存は、「全体の経緯に基づいた事態の本質」への目配りを疎かにする原因ともなります。例えば、原本にこだわる社会はニセの原本には弱いということもありますし、問題を起こして訴訟を受けた企業が「訴状を見ないとコメントできない」などという居直りが許されるなど、妙な形式主義を許す原因にもなっているわけです。

 この点に関しては、行政サービスが電子化されても、根本的な解決にはなっていないように思います。現在進行している行政などの「電子化」というのは、「原本主義」と同じような重装備のセキュリティを重視しており、システムを信じすぎる危険が残っていると考えられるからです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

日米韓が合同訓練、B52爆撃機参加 3カ国制服組ト

ビジネス

上海の規制当局、ステーブルコイン巡る戦略的対応検討

ワールド

スペイン、今夏の観光売上高は鈍化見通し 客数は最高

ワールド

トランプ氏、カナダに35%関税 他の大半の国は「一
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 2
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 3
    トランプ関税と財政の無茶ぶりに投資家もうんざり、「強いドルは終わった」
  • 4
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 5
    アメリカを「好きな国・嫌いな国」ランキング...日本…
  • 6
    アメリカの保守派はどうして温暖化理論を信じないの…
  • 7
    名古屋が中国からのフェンタニル密輸の中継拠点に?…
  • 8
    【クイズ】日本から密輸?...鎮痛剤「フェンタニル」…
  • 9
    ハメネイの側近がトランプ「暗殺」の脅迫?「別荘で…
  • 10
    犯罪者に狙われる家の「共通点」とは? 広域強盗事…
  • 1
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 4
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 5
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 6
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコ…
  • 7
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 8
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 9
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 10
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story