コラム

タングルウッド音楽祭に残る小澤征爾の存在感

2009年08月03日(月)12時39分

 小澤征爾氏がボストン交響楽団の音楽監督を辞任して、ウィーン国立歌劇場に転出したのが2002年で、これ以降はタングルウッド音楽祭からも小澤氏は遠ざかっています。タングルウッドというのは、ボストンからマサチューセッツ州を西に横断したNY州境に近い高原にある野外音楽施設で、ボストン響は毎年夏にはここを本拠地として音楽祭を繰り広げているのです。

 とにかく、タングルウッドといえば「オザワ」という結びつきは強いものがあります。例えば小澤氏のお嬢さんである小澤征良さんのエッセイ『おわらない夏』などを読むと、一層その思いが強くなるのを感じます。この高原で毎夏小澤氏の過ごした時間、そして多くの人を楽しませた音楽の余韻が感じられるからです。

 そのタングルウッド音楽祭は今も健在です。小澤氏の退任後、後継の音楽監督に就任したジェイムズ・レヴァイン氏の下で、今年もちゃんと開催されています。そのオープニングコンサートを聞く機会があったのですが、コンサートは満員御礼の盛況で、「シェイド」と呼ばれる屋根付きの客席だけでなく、有名な芝生席も大勢の人で埋まっていました。

 指揮はもちろん音楽監督のレヴァイン氏、演目はオール・チャイコフスキー・プログラムと銘打って「チャイコの6番の交響曲(悲愴)」と「ピアノ協奏曲第1番」でした。この誰でも知っている、超ミーハーな曲の組み合わせというのには驚きましたが、後にその理由が分かりました。

 伝統あるタングルウッド音楽祭のオープニングが、どうして「オール・チャイコフスキー」なのか? それは実際のコンサートを聴いてみるとすぐに分かりました。というのは、全ての楽章の切れ目で大拍手が起きたのです。シンフォニーの1楽章が終わる毎に、コンチェルトも1楽章ごとに万雷の拍手、いやそれどころか「ブラス中心の派手なマーチ」であるシンフォニーの第3楽章、ピアニストの華麗なテクニックの聴かせ所の多いコンチェルトの第1楽章が終わったときには総立ちに近い状態になったのです。

 これはヨーロッパや日本では、あるいはアメリカでも通常の定期公演などでは完全にマナー違反です。特に交響曲の6番では、最終の終楽章が悲痛なアダージョになっており、この曲を愛好する人はその直前に野蛮な拍手など聞かされては激怒する人もあるのではないでしょうか? 実際にレヴァイン氏も、ピアニストのヤヒム・ブロンフマン氏も「曲の途中の拍手」に戸惑っていたのは明らかでした。

 ですが、二人はそれを許容したのです。ブロンフマン氏に至っては、1楽章が終わったところで鳴りやまない拍手に対して「ちょこん」と立ってお辞儀をするというサービスまでしていました。そうなのです。このタングルウッド音楽祭というのは「音楽マニアの祭典」ではないのです。クラシック音楽に全くなじみのない聴衆にも楽しんでもらおう、そのために高原の非日常的な空間を作り上げ、様々な努力をしてお客を呼び込んでいるのです。

 確かにこの音楽祭会場には、洒落た食事のコーナーがあり、ワインを持ち込んでピクニック形式のパーティーと「しゃれ込む」人々がいました。また会場の周辺には豪華な民宿(ベッド・アンド・ブレックファスト)があって、泊まりがけで音楽祭を楽しむこともできるのです。そうしたセッティングを考えると、いかにも音楽好きのファンが集まってくる場所のようにも思えます。ですが、思い思いに楽しんでいる聴衆の多くは「シンフォニーやコンチェルトの途中で拍手してしまう」素人であり、そしてそのような聴衆を前提としているからこその「オール・チャイコフスキー・プログラム」なのでした。

 勿論、この日が初日であったことも大きな要素で、とりわけスポンサー筋の「お付き合い」や「音楽よりワインと社交」という人が多かったのだと思います。音楽祭が進むにつれて、ストラビンスキーとかマーラーなど、もっと本格的なプログラムも用意されており、そうした演目の日にはまた違った種類の聴衆が集まるのだと思います。ですが、この初日に限って言えば、聴衆全体として「クラシックのコンサートに慣れていない」度合いは相当なものでした。

 そうであっても、音楽には一切手を抜かない姿勢、そこに音楽を愛し、その愛する音楽を本気で大勢の人々に紹介してゆこうという「真の啓蒙家」としての小澤スピリットを感じたのは私だけではないと思います。1楽章が終わったところで、スタンディングオベーションをしてしまうアメリカ人をバカにするのは簡単です。ですが、そうした人々を招き入れ、ホンモノの音楽を聴かせ、長い時間をかけて音楽ファンを育ててゆくという姿勢は、だれにでも持てるものではないと思います。

 その晩のコンサートでも、音楽の魔術は随所に堪能できました。特に「チャイ6」の終楽章は、いかにもレヴァイン氏らしい「スローなテンポを取りながら音楽が崩れることなく、活き活きと進んでゆく」魔法のような時間が流れていましたし、そんなレヴァイン氏のスタイルに合わせるように、ブロンフマン氏のピアノも(時にはピアノをぶっ叩くような「爆演」を聴かせることもある人ですが)たいへんにエレガントで、立派なチャイコになっていました。

 小澤氏の芸術について、東洋と西洋の文化の葛藤から生まれたものであるとか、日本の狭い世界から飛び出す中で得たエネルギーの成果だとか、あるいは逆にたいへんな手間暇をかけて独自の解釈を設計していった努力の成果、というような評価を良く聞きます。ですが、これに加えて「全くの素人である聴衆」に対して「誠心誠意ホンモノの音楽を届けてゆく」ことを通じて「人々への」そして「音楽への」大きな愛情を注ぎ続けたという面も無視できないと思います。そのスピリットは今も尚、タングルウッドの地にしっかりと根付いているのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

中国、外資優遇の対象拡大 先進製造業やハイテクなど

ワールド

リビア軍参謀総長ら搭乗機、墜落前に緊急着陸要請 8

ビジネス

台湾中銀、取引序盤の米ドル売り制限をさらに緩和=ト

ビジネス

政府、25・26年度の成長率見通し上方修正 政策効
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    素粒子では「宇宙の根源」に迫れない...理論物理学者・野村泰紀に聞いた「ファンダメンタルなもの」への情熱
  • 2
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低く、健康不安もあるのに働く高齢者たち
  • 3
    ジョンベネ・ラムジー殺害事件に新展開 父「これまでで最も希望が持てる」
  • 4
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 5
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 6
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 7
    12歳の娘の「初潮パーティー」を阻止した父親の投稿…
  • 8
    「何度でも見ちゃう...」ビリー・アイリッシュ、自身…
  • 9
    「個人的な欲望」から誕生した大人気店の秘密...平野…
  • 10
    なぜ人は「過去の失敗」ばかり覚えているのか?――老…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 3
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 4
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切…
  • 5
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開した…
  • 6
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 7
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末…
  • 8
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 9
    空中でバラバラに...ロシア軍の大型輸送機「An-22」…
  • 10
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 7
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 8
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 9
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 10
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story