コラム

すべてがチェスの対局に集約されていく『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』

2023年07月20日(木)13時00分

『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』

<ユダヤ系作家ツヴァイクの最期の小説「チェスの話」の映画化。現在と過去、現実と幻想の境界が揺らぎだすドラマ......>

オーストリア出身のユダヤ系作家シュテファン・ツヴァイクは、ナチスの台頭とともに祖国を離れ、亡命生活の最終地ペトロポリス(ブラジル)で「チェスの話」を執筆し、その直後に自ら命を絶った。フィリップ・シュテルツェル監督の『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』は、そんなツヴァイク最後の小説の映画化だ。

チェスに強いのには複雑な事情があった......

「チェスの話」は以前にも、1960年にガード・オズワルド監督、クルト・ユンゲルス主演の『Schachnovelle(英題:Brainwashed)』として映画化されているが、この小説の核心部分には、映像化するのが難しい状況や表現が盛り込まれている。

小説の舞台は、ブエノスアイレスに向かう豪華客船で、チェスの世界チャンピオンであるミルコ・チェントヴィッツとオーストリアの名家出身のB博士と呼ばれる人物が成り行きで対局することになる。B博士がチェスに強いのには複雑な事情があることがやがて明らかになる。

oba20230720b.jpg

『チェスの話 ツヴァイク短編集』シュテファン・ツヴァイク 大久保和郎・他訳(みすず書房、2011年)

大きな修道院の財産を管理する弁護士だった彼は、ナチスドイツがオーストリアを併合したときに連行され、財産の情報を聞き出すためにメトロポール・ホテルの一室に監禁された。時計も筆記具も奪われた彼は、沈黙が支配する無の世界で精神的に追い詰められていく。しかし、尋問のために部屋を出たときに、隙を突いて一冊の本を盗む。部屋に戻った彼は、その本がチェスの手引書だったことに最初は落胆するが、次第に引き込まれていく。

問題はその先だ。彼は、碁盤縞のベッドのシーツを盤面に見立て、パン屑で駒を作り、手引書に収められた名人たちの棋譜を何度も再現する。しばらくすると、頭のなかだけでそれができるようになる。だが、何十回も繰り返すうちに、頭のなかで自動的に展開できるまでになってしまい、再び無に直面する。そこで新しい試合を考え出すために、ひとりで二役を演じつづけ、チェス中毒になって憔悴していく。

想像力をめぐって対極にあるふたり

このエピソードは、実は彼が対局することになるチェントヴィッツのチェスの世界と深く結びついている。孤児として司祭に引き取られた彼は、何も学ばず、何事にも無関心な子供だったが、チェスと出会った途端に特異な才能を発揮するようになった。そんな彼のチェスには変わった一面があった。目の前に実際に盤と駒がないとまったく勝負ができない。頭のなかで盤や駒を思い描く能力がまったくなかった。

つまり、この小説では、想像力が完全に欠落した人物と、狂気の一歩手前という極限まで想像力を研ぎ澄ませた人物が対局することになる。そんな想像力をめぐって対極にあるふたりの人物を映像で表現するのは簡単ではない。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、シカゴへの州兵派遣「権限ある」 知事は

ビジネス

NY外為市場=円と英ポンドに売り、財政懸念背景

ワールド

米軍、カリブ海でベネズエラ船を攻撃 違法薬物積載=

ワールド

トランプ氏、健康不安説を否定 体調悪化のうわさは「
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:豪ワーホリ残酷物語
特集:豪ワーホリ残酷物語
2025年9月 9日号(9/ 2発売)

円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代──オーストラリアで搾取される若者たちの実態は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 2
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体」をつくる4つの食事ポイント
  • 3
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 4
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 5
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 6
    トレーニング継続率は7倍に...運動を「サボりたい」…
  • 7
    トランプ関税2審も違法判断、 「自爆災害」とクルー…
  • 8
    「人類初のパンデミック」の謎がついに解明...1500年…
  • 9
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動…
  • 10
    世界でも珍しい「日本の水泳授業」、消滅の危機にあ…
  • 1
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 2
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動ける体」をつくる、エキセントリック運動【note限定公開記事】
  • 3
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ女性が目にした光景が「酷すぎる」とSNS震撼、大論争に
  • 4
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体…
  • 5
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 6
    豊かさに溺れ、非生産的で野心のない国へ...「世界が…
  • 7
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 8
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 9
    「人類初のパンデミック」の謎がついに解明...1500年…
  • 10
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 1
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 2
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 3
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大ベビー」の姿にSNS震撼「ほぼ幼児では?」
  • 4
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 5
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 6
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 7
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 8
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 9
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story