コラム

二人の女性の避けられない運命と内なる解放を描く『燃ゆる女の肖像』

2020年12月03日(木)17時20分

「この絵は私に似ていません」

まず導入部の伯爵夫人とのやりとりから、マリアンヌの父親も画家で、かつて伯爵夫人がその父親に自身の肖像画を依頼していたことがわかる。その伯爵夫人は、先述のような事情でただ画家を雇うだけでは埒が明かないので、苦肉の策として候補ではなかった女性のマリアンヌを呼びよせたのだろう。

マリアンヌが苦労して仕上げた最初の肖像画をエロイーズが見て、「この絵は私に似ていません」と語る場面では、双方が何を思っているのかをあれこれ想像することができる。マリアンヌは、誰の目から見ても、彼女が規律、しきたり、観念に支配されていることを念頭に置いてその絵を描いた。確かに、最近その館に来るまで修道院で生活していたエロイーズは、散歩に出るまで全力で走ったことすらなかったのだから、その印象は間違いではない。

では、エロイーズはなぜ否定するのか。彼女は、その自画像を通して、自分が他者にどう見えているのかをはじめて認識し、落胆したと考えることもできる。もうひとつ見逃せないのは、エロイーズが、自分に似ていないと抗議するだけでなく、「あなた自身とも違う」と語ることだ。その発言は、エロイーズのことがそのように見えるマリアンヌこそが、規律、しきたり、観念に支配されていることを示唆する。

そんなやりとりを経て、再び肖像画を描くためにふたりが向き合うことになれば、それぞれの眼差しに熱がこもり、殻が壊れ、秘められた感情が露わになっていくことだろう。

抑圧、避けられない運命や内なる解放を描き出していく

シアマ監督は、マリアンヌとエロイーズ、そして召使いのソフィを中心に据え、男性をほとんど登場させることなく、抑圧、避けられない運命や内なる解放を描き出していく。伯爵夫人が不在の間に、三者は身分の違いを超えて親しくなり、連帯感を深めていく。ソフィが望まぬ妊娠をしていることがわかり、ふたりは彼女の堕胎に協力することで、女性の現実と向き合う。

だがこの後半で、そんな現実以上にドラマに深みをもたらしているのが、ギリシャ神話で詩人オルフェが死んだ妻を取り戻そうとする物語が盛り込まれていることだ。エロイーズが物語を朗読し、三人は、なぜオルフェが約束を破って地上に出る前に振り返って妻を見てしまうのかを語り合う。

その後、マリアンヌは、ふと振り返るとそこに白い衣装をまとったエロイーズの幻影を見るようになる。そしてこの孤島の出来事から何年も経ってから、オルフェを題材にした絵を父親の名前を借りて発表する。

そこには、単にマリアンヌが自分をオルフェに重ね、絵を描いたというだけではない深い意味が込められている。

当時の多くの女性画家にとって、その活動は日々の糧を得る手段であって、彼女たちが手がける作品は、肖像画、静物画、風俗画などあまり重要ではない主題に限定されていた。歴史、宗教、神話などの大きな主題は、大家だけに許されるものだった。

マリアンヌが、最初の肖像画を描いたときのように、規律、しきたり、観念に支配されていれば、自分をオルフェに重ね、しかも絵の題材にすることなど考えもしなかっただろう。シアマ監督は、マリアンヌがエロイーズとの関係を通していかに大きな変貌を遂げたのかを実に鮮やかに描き出している。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:欧州で増加する学校の銃乱射事件、「米国特

ビジネス

豪サントス、アブダビ国営石油主導連合が買収提案 1

ワールド

韓国、第2次補正予算案を19日に閣議上程へ 景気支

ワールド

米の日鉄投資計画承認、日米の経済関係強化につながる
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 7
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 8
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 9
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 9
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story