コラム

90年代韓国に実在した対北工作員の物語『工作 黒金星と呼ばれた男』

2019年07月18日(木)20時00分

『工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男』 (C)2018 CJ ENM CORPORATION ALL RIGHTS RESERVED

<韓国の異才ユン・ジョンビン監督が、90年代に実在した対北工作員をもとにしたフィクションであり、韓国社会を深く掘り下げた......>

韓国の異才ユン・ジョンビンの新作『工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男』は、90年代に実在した対北工作員をもとにしたフィクションであり、韓国社会を深く掘り下げながらも、社会性と娯楽性を両立させてしまうこの監督ならではの巧みな話術が際立っている。

その導入部では、陸軍の少佐だったパク・ソギョンが、安企部(国家安全企画部)のチェ・ハクソン室長にスカウトされ、北朝鮮の核兵器開発の実態を探るために、工作員"黒金星(ブラック・ヴィーナス)"へと変貌を遂げていく。軍を辞めた彼は、韓国に潜入している北の工作員の目を欺くために、酒を飲み歩き、借金を重ね、自己破産し、事業家に生まれ変わる。

やがて北京に現れた黒金星は、やり手の事業家を演じつづけ、北京に駐在する北の対外経済委員会の所長リ・ミョンウンに接触する機会をうかがう。彼は金を持っている事業家としてマークされるようになり、安企部が投げた餌に北側が食いつき、接触に成功する。あの手この手でテストされた黒金星は、リ所長の信頼を得て、北の風景をバックに広告を制作する共同事業が徐々に具体化していく。

本作に派手なアクションはほとんどないが、一寸先は闇という異様な緊張感に満ちた駆け引きが連続する展開は、実に見応えがある。しかも、そんなドラマに、政界に復帰し、再び大統領選に臨もうとするキム・デジュン(金大中)のニュースが挿入されるようになると、別な緊張も生まれ、本作の題名「工作」の意味するものが黒金星の活動だけではないことがわかってくる。

96年、北朝鮮と安企部の「北風工作」

ここでキム・デジュンが戦った総選挙と大統領選でなにが起こったのかを振り返っておくと、本作の展開がより興味深いものになる。キム・デジュンの側近だった金玉斗議員が書いた『政権交代 韓国大統領金大中が闘い抜いた謀略戦』を参考にして、ポイントになる出来事を要約しておきたい。

ooba0718b.jpg

『政権交代 韓国大統領金大中が闘い抜いた謀略戦』金玉斗 太刀川正樹訳(悠飛社、1999年)

96年4月の総選挙では、その一週間前に北朝鮮兵士が事前通告なしに共同警備区域内に侵入し、韓国側を挑発する事件が起こった。キム・ヨンサム(金泳三)政権は、その事件を利用して戦争前夜のような緊張感を煽り、マスコミも大々的に報道した。その結果、野党は議席を失い、キム・デジュンも落選することになった。

97年12月の大統領選の直前には、与党や安企部による陰謀が明らかになる。与党議員が北京で北朝鮮の代表と南北経済協力や観光開発問題などを秘密協議した際、大統領選を有利に進めるために北朝鮮に協力を求め、代償として金品を提供するという陰謀が発覚する。さらに、安企部の工作が以下のように綴られている。


 「北朝鮮と安企部との間に北風工作のホットラインが開設されており、安企部はこのホットラインを通じて、選挙戦終盤である十二月十五日から十七日にかけて、三八度線の休戦ラインに二〜三小隊を投入して、韓国側に武力挑発するように北朝鮮側に要請したというのだ」

本作では、そんな「北風工作」というもうひとつの工作が、黒金星の目を通して描き出される。与えられた使命を遂行する彼は、ついにピョンヤンに呼ばれ、死を覚悟するような試練を経てキム・ジョンイル(金正日)に接見し、共同事業を許され、核施設に接近する機会をうかがう。しかし一方では、自分の知らない工作が行われていることを察知し、共同事業を台無しにしかねないその北風工作によって追い詰められていく。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アサヒGHD、洋酒の価格改定を延期 サイバー攻撃が

ワールド

インド、せき止めシロップ製造会社の経営者逮捕 有害

ワールド

ガザ和平案第1段階の合意署名、日本時間午後6時=関

ビジネス

TSMC、第3四半期売上高は予想上回る ガイダンス
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:中国EVと未来戦争
特集:中国EVと未来戦争
2025年10月14日号(10/ 7発売)

バッテリーやセンサーなど電気自動車の技術で今や世界をリードする中国が、戦争でもアメリカに勝つ日

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    ウクライナの英雄、ロシアの難敵──アゾフ旅団はなぜ「過激派」から「精鋭」へと変わったのか?
  • 3
    ロシア「影の船団」が動く──拿捕されたタンカーが示す新たなグレーゾーン戦略
  • 4
    ヒゲワシの巣で「貴重なお宝」を次々発見...700年前…
  • 5
    トイレ練習中の2歳の娘が「被疑者」に...検察官の女…
  • 6
    インフレで4割が「貯蓄ゼロ」、ゴールドマン・サック…
  • 7
    【クイズ】イタリアではない?...世界で最も「ニンニ…
  • 8
    「それって、死体?...」新婚旅行中の男性のビデオに…
  • 9
    あなたは何型に当てはまる?「5つの睡眠タイプ」で記…
  • 10
    祖母の遺産は「2000体のアレ」だった...強迫的なコレ…
  • 1
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 2
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレクトとは何か? 多い地域はどこか?
  • 3
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最悪」の下落リスク
  • 4
    赤ちゃんの「耳」に不思議な特徴...写真をSNS投稿す…
  • 5
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 6
    iPhone 17は「すぐ傷つく」...世界中で相次ぐ苦情、A…
  • 7
    祖母の遺産は「2000体のアレ」だった...強迫的なコレ…
  • 8
    ロシア「影の船団」が動く──拿捕されたタンカーが示…
  • 9
    更年期を快適に──筋トレで得られる心と体の4大効果
  • 10
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ…
  • 5
    カミラ王妃のキャサリン妃への「いら立ち」が話題に.…
  • 6
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 7
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 8
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 9
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 10
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story