コラム

映画『太陽の子』で考える「名前を奪う」行為の罪深さ

2016年09月27日(火)16時45分

nojima160927-a.jpg

©一期一會影像製作有限公司

 このほど、上映会のために来日したパナイ役のアロ・カリティン・パチラルさんに、このシーンを演じた経緯について語ってもらったのだが、そこで彼女は、自らの個人的体験をこんな風に明かした。

 彼女は、台湾東部の花蓮にあるアミ族の村で生まれた。生まれた時に「歌う神」を意味するアロという名前をつけられた。アミ族の名前には姓がない。そして、母系社会である。アロは名前で、カリティンは母親の名前。パチラルは太陽という意味があり、アミ族のなかでの氏族集団の名前である。姓と名を中心とする我々儒教文明の名前とは概念からして異なっている。

 アロという名前で周囲から呼ばれ続けた彼女だが、戸籍では中国語名で登録しなくてはならない。彼女は中国語の名前もつけたが、家庭では使うことはなく、そんな中国語の名前は忘れて育った。

 しかし、小学校に入る時には中国語名を使わなくてはならなくなった。クラスで皆の前で自己紹介をしたとき、中国語にアミ族のなまりがあることで、クラス中から大声で笑われてしまった。その後もクラスメイトに言葉をからかわれ続けた。そこで彼女は二度とアミ語を使うまいと心に決め、中国語を一生懸命勉強し、3年生になるころには、スピーチコンテストで優勝するほどになった。家庭でも祖母がアミ語で話しかけても、中国語で答えるほど徹底し、大学に合格したときは「国語」が最も得意な科目になっていたという。

 そんな彼女に転機が訪れたのは大学1年生の時だった。育ての親だった祖父が亡くなった。故郷の花蓮に帰ったとき、祖母をアミ語で慰める言葉が一つも思い当たらなかった。そのことがショックで、花蓮から台北までの帰りの列車で数時間泣き続けたという。彼女がそこで決めたことが二つあった。一つはアミ語による楽曲の創作をてがけることでアミ語を学び直し、同じような境遇に置かれているアミ族の子供たちに、アミ語に誇りを持ってアミ語を捨てないでもらうこと。そして、自分自身がアミ語の名前を取り戻すことだった。

 映画でこのシーンを演じた彼女の演技が、初の映画出演でありながら、極めて真に迫るものであったことは、映画を見た人々の共通する意見だが、その背後にこのような本人の体験があったとは想像を超えたことだった。

主流の文化に「適合」を迫られ続けた先住民の歴史

 台湾には、人口54万人、全人口の2%を占める先住民16部族が暮らしている。先住民は台湾で「原住民」と呼ばれる。その字のごとく、台湾という土地にもとより住んでいた人々だ。彼らのいた土地に漢人が移住し、日本が統治し、戦後また多くの外省人が国民党の台湾撤退と共に台湾に流入した結果形成された多元社会が、台湾社会の姿である。

 そのなかで先住民は少数であるが故に清朝時代から日本時代、戦後の国民党政権下で、常に主流の文化に「適合」を迫られる対象となり、名前の変更を求められてきた。そんな彼らが1980年代の民主化と共に本格化した先住民の権利回復運動のなかで「伝統的名前の回復」を掲げて取り組み、1995年に「姓名条例」などの改正が行われ、漢人名称ではなく、先住民の名称を選択できるようになった。アロさんも大学時代に名前を伝統のものに戻したという。

 先住民文化においては、姓という概念はなく、名前+母(父)の名前+氏族(多くは土地や自然と関わる名称)と指摘したが、名前が先住民文化のなかで、自分の存在のみならず、自分のつながる過去や土地と分ちがたく結びつくものを証明するアイデンティティそのものであることが分かる。

 そうした背景を考えながらこの映画を見ていると、「自分を取り戻す」ことと、「名前を取り戻す」ことが、ほとんどイコールになっており、人々から「名前を奪う」という行為の罪深さも同時に深く感じるところである。

 理解すべきは、名前の問題を論じるとき、我々はその相手のアイデンティティを論じているのに等しい、ということである。アイデンティティは人間存在の最深部に属するものだ。名前を奪うことがいかに他者を傷つけるかは、台湾の先住民に限らず、日本自身も戦前に手痛い経験を経てきている問題である。映画『太陽の子』は、そんな「名前」の大切さを我々に気づかせてくれる。そのことに対する配慮をいかなる場合でも忘れまいと改めて心に刻みたい。

*映画『太陽の子』の日本における上映情報は FBファンページからご参照下さい。10月7日(金)夜には、東京・虎ノ門の笹川平和財団で上映会を行います。この上映会の上映情報はこちらへ。本作品の上映プロジェクトについては野嶋剛の公式HPでその経緯や理由を詳しく説明しております。

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト、大東文化大学教授
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。朝日新聞に入社し、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』(ちくま文庫)『台湾とは何か』『香港とは何か』(ちくま新書)。『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

UBS、資本規制対応で米国移転検討 トランプ政権と

ビジネス

米オープンAI、マイクロソフト向け収益分配率を8%

ビジネス

中国新築住宅価格、8月も前月比-0.3% 需要低迷

ビジネス

中国不動産投資、1─8月は前年比12.9%減
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 3
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人に共通する特徴とは?
  • 4
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 5
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 8
    【動画あり】火星に古代生命が存在していた!? NAS…
  • 9
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 10
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベー…
  • 1
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 2
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 6
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 7
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 10
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story