コラム

ダライ・ラマと日本メディアの「保守性」

2011年11月08日(火)17時22分


 チベットと聞いて人々が想像するもの──雪に覆われた山々と息をのむような絶景、風にはためくチベット仏教の祈祷旗、透き通るような青い空、サフラン色の法衣をまとい祈りのマニ車を回す僧。そして何より、時が止まったような神聖さ。

 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世もやはり特別だ。揺るぎない信念と深い慈悲の持ち主で、彼自身が啓示であり道義的な羅針盤であり、騒然とした現代の国際社会にあっても航路を照らし続けてくれる灯台だ。

 独立運動や困難な政治状況を脇に置き、西側にとってのチベットの意味をひとことで表すとすれば、「けがれなさ」だろう。こうしたイメージは、リチャード・ギアやスティーブン・セガールなどのハリウッド・スターがチベット独立を崇高な運動に祭り上げるよりずっと以前から定着していた。

 少し前の記事になるが、本誌2010年3月3日号に載ったフォーリン・ポリシー誌の記事「ダライ・ラマは聖人にあらず」の冒頭部分だ。書き出しこそダライ・ラマを「灯台」と評しているが、タイトルが示すとおり記事の中身はダライ・ラマとチベットの過度な神聖化がもたらす弊害を糾す内容だ。個人的にはここ数年の間、本誌に載せた記事の中でも出色の出来だと思っている。記事はこう続く。


 だが、西側がダライ・ラマのことをどれだけ知っているというのだろう。慈悲の精神や環境保護といったダライ・ラマの主張は主としてリベラル派の間に多くの信奉者を持つ。だが彼の社会的な保守性はよく知られていないか、故意に無視されている(イギリスのジャーナリスト、クリストファー・ヒッチェンズは例外の1人だ)。

 11月7日、フリージャーナリストらでつくる東京の「自由報道協会」でダライ・ラマが会見し、原発の平和利用を容認する発言をした。


「原子力の代替案があるならいいが、ダムによる水力発電は自然破壊を生むし、風力も太陽光もまだエネルギーとしては十分ではない。『十分』というのは、先進国にとって十分だというだけでなく、途上国にとっても十分でないと、貧富の差はますます広がる。これから発展していく人々のことも考えるべきだ」

「99%安全でも1%の危険は残る。車を運転していても食事をしていてもこの1%の危険性は残る」

「原発はいらない、とあなた方が判断するのであれば、それはそれでいい」

 ダライ・ラマは今年4月、ほかのノーベル平和賞受賞者9人と共同で世界のリーダーに"No to Nuclear power: Peace Laureates to World Leaders"という書簡を送っている。書簡は「現在、すでに原子力発電所にかなりの額を投資しているか、あるいは投資を検討している国のリーダー」宛て、つまりおおむね先進国を想定したものだ。ダライ・ラマの東京での発言趣旨はあくまで「途上国に原発は必要」だが、それでも原発が「クリーンでも安全でも、安価でもないエネルギーだと気付くべきだ」とする書簡とは矛盾する。

 福島原発の事故を受けてとりまとめられた書簡に署名した後、ダライ・ラマに何らかの心境の変化があったのか、それともそもそも書簡には単に形式的に参加しただけだったのかは定かではない。ただ、おそらくその真意は東京での発言の通り、「途上国に原発は必要」にあるのだろう。

 手付かずの自然とそこに暮らす純粋な人々、そしてその中心にいる慈愛あふれる宗教者ダライ・ラマ――そんなイメージと、原発容認というあまりに現実的な選択は確かにかけ離れている。ただなぜダライ・ラマがそんな発言をしたのか、想像はできる。

 世界第2位の経済大国になった中国と対峙するうえで、ダライ・ラマ、そしてチベットにとって貧困という問題はかなり深刻だ。「国力」が高まらない限り、チベットは中国からいつまでたっても相手にされない。「原発容認」発言は、世界の格差解消という理想主義の衣をまとってはいる。だがその衣の下には、チベットの「自主」という現実的な願望が隠れている――少なくとも、筆者の目にはそう映った。チベットにはチベットの理由がある。原発事故で日々放射能の恐怖にさらされているとはいえ、日本人が単純に「脱原発」を彼らに押し付けることはできない。

 それにしても、日本の大手メディアでこの会見のこの発言を報じたところは、筆者が確認したところではほとんどなかった。一般には記者クラブと既存メディア批判を続ける「自由報道協会」への反発ゆえと見られているが、実はそうではないと思う。

 ダライ・ラマが大方の予想通り「脱原発」発言をしていれば、報じるメディアも多かったはずだ。そうならなかったのは、ダライ・ラマのこの発言が日本メディアの予想する「ダライ・ラマ=環境保護・人権重視=反原発」というコンテクストから大きく外れたものだったからではないか。「公式」にあてはまらなくなると、彼らはとたんに思考と行動を止めてしまう(森達也監督の「A2」で描かれた通り、オウム真理教信者と教団施設周辺住民の交流を報じなかったことがその最たる例だ)。

 ダライ・ラマより、日本メディアの相変わらずの保守性の方がずっと深刻かもしれない。

――編集部・長岡義博(@nagaoka1969)

プロフィール

ニューズウィーク日本版編集部

ニューズウィーク日本版は1986年に創刊。世界情勢からビジネス、カルチャーまで、日本メディアにはないワールドワイドな視点でニュースを読み解きます。編集部ブログでは編集部員の声をお届けします。

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