コラム

「トランスジェンダーであるだけで殺される国」パキスタンに「LGBT法」成立

2018年05月24日(木)14時24分

目立つのはむしろ、職業的テロリストでない平均的な市民が、大した理由がないままにトランスジェンダーを殺傷する事件です。

トランスジェンダー法が成立する直前の5月4日、同国北西部で結婚式に呼ばれてダンスを披露したトランスジェンダーが、報酬として受けとった1000ルピー(約1000円)に釣り銭を払えなかっただけで、顧客に銃殺されました。

些細なことで射殺されたトランスジェンダー


この事件は、パキスタンでトランスジェンダーが「人間以下の存在」として扱われがちなことを象徴します。そのため、トランスジェンダー法が成立したとはいえ、その理念が社会の隅々までいき渡るには、長い時間が必要と思われます。

なぜパキスタンだったか

ただし、パキスタンにおけるトランスジェンダー法の成立が、同国における性的少数者の権利保護の大きな転機となったことは確かです。それでは、性に関する伝統的な理解が一般的なイスラーム圏のなかで、なぜパキスタンでこの変化が生まれたのでしょうか。

パキスタンにはもともと、「日陰者」としての扱いですが、トランスジェンダー文化があります。キスタンをはじめインド、バングラデシュ、ネパールなど南アジア一帯では昔から、ヒジュラと呼ばれる、いわゆる第三の性の人々がいます。

ヒジュラの多くは生物学上の男性で、その歴史は古く、祭事などに携わるアウトカーストとして、ムガール帝国(1526-1858)では宦官として宮廷でも働いていました。しかし、19世紀にこの地を支配した(当時同性愛を死刑の対象にしていた)英国の影響で、ヒジュラの社会的排除は強まりました。

家族から追い出されることも多い(親の財産の相続から排除されることも珍しくなかった)ため、ヒジュラは集まって暮らす傾向があります。ヒジュラが結婚式などでダンスを披露する風習もありますが、一般的に所得は低く、買春や物乞いに向かう者も珍しくありません。

イスラームは各地の文化と融合しながら世界中に普及していきました。そのため、イスラーム世界の内部は、金太郎飴のように均質的なものではありません。パキスタンの場合、明らかに差別の対象としてですが、ヒジュラ文化があったことが、他の多くのイスラーム諸国よりトランスジェンダーというテーマが日の目をみやすかったといえます。

公事としての性

パキスタンで長く社会的に排除され、「人間以下」の扱いを受けてきたトランスジェンダーの権利回復は、2000年代に進みました。2009年、パキスタン最高裁はトランスジェンダーを第三の性として認める判決を初めて下し、政府は公式の身分証明に第三の性の項目を加え始めました。トランスジェンダーが公式に認められたことは、その人権の保護の第一歩になったといえます。

プロフィール

六辻彰二

筆者は、国際政治学者。博士(国際関係)。1972年大阪府出身。アフリカを中心にグローバルな政治現象を幅広く研究。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学、日本大学などで教鞭をとる。著書に『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『世界の独裁者 現代最凶の20人』(幻冬舎)、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、共著に『グローバリゼーションの危機管理論』(芦書房)、『地球型社会の危機』(芦書房)、『国家のゆくえ』(芦書房)など。新著『日本の「水」が危ない』も近日発売

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アングル:超長期金利再び不安定化、海外勢が参院選注

ワールド

日米韓が合同訓練、B52爆撃機参加 3カ国制服組ト

ビジネス

上海の規制当局、ステーブルコイン巡る戦略的対応検討

ワールド

スペイン、今夏の観光売上高は鈍化見通し 客数は最高
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 2
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 3
    トランプ関税と財政の無茶ぶりに投資家もうんざり、「強いドルは終わった」
  • 4
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 5
    アメリカを「好きな国・嫌いな国」ランキング...日本…
  • 6
    アメリカの保守派はどうして温暖化理論を信じないの…
  • 7
    名古屋が中国からのフェンタニル密輸の中継拠点に?…
  • 8
    【クイズ】日本から密輸?...鎮痛剤「フェンタニル」…
  • 9
    ハメネイの側近がトランプ「暗殺」の脅迫?「別荘で…
  • 10
    犯罪者に狙われる家の「共通点」とは? 広域強盗事…
  • 1
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 4
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 5
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 6
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコ…
  • 7
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 8
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 9
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 10
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story