コラム

殺人者の逃避行でも、映画『悪人』に本当の悪人は1人もいない

2023年01月05日(木)15時10分
悪人

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<映画『悪人』についてネットで検索すると「本当の悪人は誰か」といったフレーズが見られる。でも、本当の悪人は1人もいない。人は環境設定でいかようにも変わる。それがこの作品のテーマだ>

『怒り』について書いた前回の原稿の最後に、次回は『悪人』について書くと予告した。なぜならこの2つはペアだから。この2つを見れば、吉田修一と李相日監督が作品に込めた思いがよく分かるから。

解体業の仕事をしている祐一(妻夫木聡)は、出会い系サイトを通じて知り合った佳乃(満島ひかり)と逢瀬を重ねていた。しかし佳乃は寡黙な祐一をつまらない男と見下していて、金の関係と割り切っている。

その日も佳乃に呼び出された祐一は、唯一の趣味である愛車を駆って出向くが、待ち合わせ場所で佳乃は、本命として狙っていた増尾(岡田将生)を偶然見つける。祐一との約束を反故(ほご)にして増尾の車に乗り込む佳乃。祐一は増尾の車の後を追う。

ここまでが事件の発端。念を押しておくが、本作はサスペンスではない。だから犯人を隠す必要はない。やがて佳乃の遺体が見つかる。同じころ祐一は出会い系サイトで知り合ったばかりの光代(深津絵里)に接触する。

国道沿いにある大手紳士服店で働く光代は、国道沿いにある小中高に通ってきた。恋人はいない。毎日が同じ日常の繰り返し。

初めてのデートで、祐一は光代をホテルに誘う。戸惑うが応じる光代。しかし祐一は行為後に光代にお金を渡そうとする。ちょうどその頃、警察は祐一の存在に気付く。後半は、孤独で不器用な2人の逃避行だ。

ネットなどでこの映画について検索すると、「本当の悪人は誰か」などのフレーズを散見する。祐一が寡黙で不器用になってしまったことには理由がある。幼い頃に母に捨てられたのだ。ならば本当の悪人は誰か。被害者ではあるけれど、祐一を見下しながら利用していた佳乃なのか。あるいは、その佳乃を見下しながら邪険に扱い、結果として事件のきっかけをつくった増尾なのか。

もしもそう主張する人がいるならば、吉田と李の代理として、それは違うと僕は言わねばならない。この作品のタイトルは『悪人』だけど、本当の悪人は1人もいない。

佳乃も増尾も、これまでの成育環境やいくつかの偶然が重なっていなければ、もっと善き人になっていたかもしれない。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ユーロ高とインフレを楽観視、関税は経済を圧迫へ=E

ワールド

タイ商務相、対米関税交渉に自信 税率10%に引き下

ワールド

イスラエル商都などにミサイル、8人死亡 イラン「新

ビジネス

午後3時のドルは144円前半、中東情勢にらみ底堅い
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 7
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 8
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 9
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 10
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 9
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story