コラム

行列と秩序とイギリス人

2011年02月09日(水)17時33分

 イギリスに帰国して、住み慣れたわが家に帰ったような気がする反面、何となく落ち着かない感じもしている。幸い、そんな僕の「イギリス基礎ガイド本」とでも言うべき本を手に入れた。ここ数年に読んだ中で最高の一冊といえるくらいだ。

 人類学者のケイト・フォックスが書いたこの本は、その名も『イギリス人ウォッチング』(邦訳・英宝社)。イギリス人に関する解説を、軽いノリで楽しんで読める(実はちゃんとした学術文献でもある)。

 1ページに1つはイギリス人に関する興味深い考察があるが、その全部はとてもここでは書き切れない。1つだけ、とても面白かったものを紹介しよう。

 ご存じかどうかわからないが、イギリス人には「行列を作る」という才能がある。行列に並ぶのがそんなに好きというわけでもないが、他の国の人々に比べ、行列に対してより辛抱強く、より真剣な態度で臨んでいる、ということらしい。たぶん、心のどこかで、平等や公平、忍耐といったものをとても重んじる意識があるのだろう。

 たとえば、公衆電話ボックスが2つあったら、イギリス人は1列に並び、先頭の人は先に空いたほうのボックスに入る。片方の電話が長くふさがってしまうこともあるから、これが一番公平なやり方だ。

 あるときロンドンからのフライトでどこか外国の空港に着いた。入国審査のデスクは2つあり、イギリス人は無意識のうちに2つのデスクの中間あたりに1列で並んだ。

 7人ほどが並んだその列を見て、1人のドイツ人ビジネスマンがつかつかと右側のデスクの前に進み、勝手に列を作ってしまった。あのときほどイギリス人たちが激怒する姿は見たことがない。僕も一緒になってこの割り込み男に文句を言った。今でも思い出すと腹が立つ。

■パブにも暗黙のルールがある

 パブでの注文の仕方にも、イギリス人ならではの流儀がある。イギリスのパブにはウェイターがテーブルを回るシステムはないし、客が列を作るわけでもないから、注文の順番がめちゃくちゃになりそうだ。客はカウンターの前に立って、気付いてもらえるのをじっと待たなければならない。それでも、9割方は順番が守られている。

 第一に、どの客が先にカウンターの前に立ったか、従業員が順番を覚えている。混み合う時間帯にはそれも難しそうだが、そういうときは客が協力する。どの客が先かはっきりしない場合は、従業員は「次はどなた?」と聞き、一番長く待っていた客が注文を言うのだ。このシステムにつけこんで故意に割り込もうとする客なんて見たことがない。

 イギリス人は飲み物を注文しにカウンターの前に立つとき、誰が自分より前にいたか、誰が自分より後に来たか、無意識のうちにチェックしている。従業員が間違えて、先客を飛ばして注文を聞きにきたら、「あっちの人のほうが先ですよ」と教えるのが普通だ。

 もちろん、フォックスの本を読む前からこうした習慣の多くはわかっていたが、本を読んで改めて気づかされた点もある。たとえば、パブでイギリス人は、手を振ったり大声を出したりして従業員を呼ぶことはしない。従業員とアイコンタクトしようとするだけだ。折り畳んだ紙幣か空のグラスを遠慮がちに掲げることはあるかもしれない。でも、厚かましい態度は禁物だ。

 実は、フォックスの本でこれを読んで僕は安心した。あるとき新宿の「アイリッシュパブ」なる店で、アメリカ人の客が人をかき分けてカウンターの前に進み、派手な身振りと大きな声で従業員を呼び、順番を飛ばして飲み物を注文した。僕は怒りのあまり、危うくその男を殴るところだった。

 この男はイギリス人の深層心理にある価値観を土足で踏みにじったのだと、人類学者のフォックスの説明で判明して、僕はなるほどと思った(つまり、あのときの僕が単に悪酔いしていたわけではなかったということだ)。

■目に見えない行列の先頭に

「イギリス人はたった1人でも整然と列に並ぶ」というジョークがあるが、これは決して誇張ではないと、フォックスは述べている。彼女自身もそうだが、イギリス人はバス停に着くと、他にバスを待つ人が誰もいなくてもベンチに座ってダラダラ待ったりはしない。あたかも目に見えない行列の先頭に立っているかのように、ちゃんとバス停の標識の真ん前に立つ。

 このくだりを読んで、思わず笑ってしまった。僕も同じことをすることに気付いたからだ。言われてみればおかしな習慣だ。それでもなんだかホッとした。15年も外国で暮らしたけれど、今も1人で行列を作る僕は、奥底にしっかりとイギリス人魂が根付いているみたいだ。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

EU一般裁、アマゾンの請求棄却 「巨大」プラットフ

ワールド

ジャワ島最高峰のスメル山で大規模噴火、警戒度最高に

ビジネス

中国、債券発行で計40億ユーロ調達 応募倍率25倍

ビジネス

英CPI、10月3.6%に鈍化 12月利下げ観測
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    「ゲームそのまま...」実写版『ゼルダの伝説』の撮影風景がSNSで話題に、「再現度が高すぎる」とファン興奮
  • 4
    マイケル・J・フォックスが新著で初めて語る、40年目…
  • 5
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 6
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 7
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 8
    「これは侮辱だ」ディズニー、生成AI使用の「衝撃宣…
  • 9
    報じられなかった中国人の「美談」
  • 10
    悪化する日中関係 悪いのは高市首相か、それとも中国…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 4
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 5
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 6
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 7
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 8
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 9
    「ゲームそのまま...」実写版『ゼルダの伝説』の撮影…
  • 10
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 6
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story