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『鎌倉殿の13人』は「法の支配」への壮大な前振り
『鎌倉殿の13人』でもそれは露骨に起こっている。源義経や和田義盛など権力闘争で倒れていく登場人物たちに、物語はいったん悲劇を回避しうる可能性を示す。しかし登場人物たちがそれを選ばなかったり、ミスや不運が重なったりすることによって、歴史が改変されることなく悲劇が必ず発生してしまうのだ。
実朝が犯した途方もない「罪」
悲劇は人間の悪意や愚かさそれ自体によってもたらされるのではなく、人間が不完全な存在であるがゆえに、自身の持分を越えて侵犯してはいけない領域に介入してしまったことの罪によってもたらされる。ただし人間はその罪を事前に知ることはなく、そうとは知らずに犯してしまう。従ってそれは運命と呼ばれる。このギリシア時代から続く「悲劇」ジャンルの手法を、三谷幸喜は巧みに利用している。
『鎌倉殿』の登場人物たちは、多かれ少なかれ、そうとは知らずに自身の持分を越えてしまう。持分を越えた理由は様々で、人間の感覚からすれば当然であり、ただちに罪とは呼べないものも多い。たとえば源実朝が、信頼していた者が次々と死んでいく鎌倉の闇に嫌気がさして朝廷に接近しようとするのは視聴者の目から見ても当然のようにみえる。また義時が坂東武者のための世をつくろうとするのも、非業の死を遂げた兄宗時の意志を継いだからだ。しかし運命という観点からすれば、それは途方もない罪であり、実朝は暗殺という罰を受けることになるし、義時も犠牲者を多数生み出した果てに、自分自身が「13人」最後の犠牲者となる。
八重の唐突な死さえむなしく
次々と業を重ね、悲劇を連鎖させていく登場人物たちを救済できる人物は、このドラマには出てこない。強いて言えば、義時の物語上の最初の妻である八重がその役割を果たせる可能性があった。八重の唐突な死は、キリストが十字架にかかったのと似て、他のキャラクターたちの全ての罪を一身に背負って贖うための犠牲のようにもみえた。しかし八重の死ですら鎌倉の業は贖えない。むしろ悲惨な事件は八重の死以降、一層激しくなるのだ。
従って物語は結局、主人公である北条義時にせよ、彼に最終的な引導を渡した北条政子にせよ、誰も救済することなく終焉を迎えることになった。しかし物語は、次の世代への希望を残して終わった。それが北条泰時なのだ。
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