コラム

憂鬱な「空気」

2011年10月30日(日)07時00分

「なんでおれは、このアカウントをフォローしてわざわざ自分を暗い気分にしてんだ?」

 数年前、在北京のある華僑がツイッターでこうつぶやいていた。「そりゃ、自業自得だろ」と思ったわたしもいつのまにやらそのアカウントをフォローし、1時間ごとにそれが発するつぶやきをできれば見たくない、しかし見てしまう、という同じジレンマに陥っている。

 そのアカウントとは「@BeijingAir」(https://twitter.com/beijingair )。北京にあるアメリカ大使館が敷地内に機器を持ち込み、大気中の粒径2.5μm以下の粒子状物質濃度PM2.5とオゾンの状態を監視、それを1時間ごとにつぶやいているアカウントだ。これを書いている時点でのPM2.5観測結果はずっと、「Very Unhealthy」(非常に不健康)「Hazardous」(有害)が並んでおり、これを見て落ち込まない方がどうかしている。

 しかし、だからといって何ができるだろう? 北京市環境保護局が発表した、この時間帯を含む「汚染指数予測」は125-145とされており、「軽微汚染」だという。もちろん、「予測」は現実にあらず、即時計測のアメリカ大使館のデータの方が真実味がある。しかし、毎日毎時、「非常に不健康」「有害」といった文字が並ぶデータを信じ続けるには勇気がいる。そして、その同じジレンマを北京の市民も感じるようになり、北京市環境保護局とアメリカ大使館の数値の余りの差をどう読み比べ、何を信じるべきかとウェブ上で話題になり始めた。

 実際には北京市とアメリカ大使館の数値の違いは主に北京市が「PM10」と呼ばれる粒径10μm以下の粒子状物質を監視しているためで、中国ではこのような物質を「可吸入顆粒物」と呼んでいる(ちなみに、日本ではアメリカが監視するPM2.5よりも緩く、しかし中国が採用するPM10よりも細かい粒子のみを対象にしたSPMという監視方法をとっているそうだ)。だが、PM10濃度の増大は呼吸器や心臓、血管系の病気の罹患率を高め、緊急治療室への来診数が増えることが証明されており、さらにPM2.5濃度と死亡率の高さの関係はPM10濃度のそれを超えていることも明らかになっているという。

 北京は、オリンピックが行われた2008年には確かに青空が続いたし、翌年も晴れた日が多く、大気環境改善に成功したかと思われた。しかし、昨年あたりからすでにそれも過去のものとなり、今年は以前よりもましてスモッグが低く霧のように垂れこむ日が続いている。報道によると、アメリカ大使館の「@BeijingAir」では昨年、「Hazardous」を通り越して「Crazy Bad」(驚異的なひどさ)という評価を記録した日があったそうだが、その後「Beyond Index」(指数越え)と書き換えられたらしい。友人たちの中には、真顔で空気の悪さを理由に移民を口にする人まで出て来て、ここに暮らす者として一概にそれを冗談だと思えないレベルである。

 あまりの状況の悪さに「@BeijingAir」の数値を、「いや、あれはアメリカ大使館の敷地内の空気の質を示すもので、北京全体の指数として見るには当たらない」という「阿Q精神」を発揮する者もいる。「なぜ北京市はPM2.5濃度を発表しないのか」という声に対して、一部の大学の専門研究所などでは試験的にPM2.5濃度の監視を始めており、実際にそこで高い濃度データが計測された時には付近の大学病院の心臓血管科を訪れる患者が増えるという結果もつかんでいると、「南方週末」紙は伝えている。さらに、北京市内にはすでに40カ所以上のPM2.5の監視ポイントが設けられており、全国でも南京、広州、上海、長沙など20都市でモデル監視が始まっているが、それでも環境保護局がPM10濃度基準の発表にこだわっているのは、「PM2.5濃度観測を大気レベルの基準にすれば、現在基準合格とされる全国都市の20%がレベル落ちしてしまうから」という専門家の声が紹介されている。

 実はわたしも先週末に杭州に遊びに行って帰ってきて以来、北京は重苦しいスモッグに包まれており、ずっと顔の痒みに悩まされている。もともと北九州という工業地帯で育ち、香港でも車と人の往来の多いモンコック地区で長年暮らしたので空気の悪さには免疫があると自信があったわたしだが、北京に来てから花粉症を発症、さらに近年では1年に数回、こんな顔や唇の腫れやかゆみを経験するようになった。

 北京環境保護局のサイトをのぞくと、9月30日のレポートでは「年間における2級以上の大気レベル日数目標75%(274日間)まであと54日」とあり、それが10月末の時点で「あと35日」に減っていた。つまり、10月の北京は20日間も「大気良好」だったということか。だが、暮らしている人間にとってはどう考えても「スモッグが20日間」というほうがしっくりくる1カ月だった。

 北京市の環境保護局は「ノルマ達成」のためのカウントを進めている。我々が憂鬱になりながら、今日も@BeijingAirを眺め続けるのも仕方がないではないか。

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ホンダ、カナダにEV生産拠点 電池や部材工場含め総

ビジネス

スイス中銀、第1四半期の利益が過去最高 フラン安や

ビジネス

仏エルメス、第1四半期は17%増収 中国好調

ワールド

ロシア凍結資産の利息でウクライナ支援、米提案をG7
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴らす「おばけタンパク質」の正体とは?

  • 3

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗衣氏への名誉棄損に対する賠償命令

  • 4

    心を穏やかに保つ禅の教え 「世界が尊敬する日本人100…

  • 5

    マイナス金利の解除でも、円安が止まらない「当然」…

  • 6

    今だからこそ観るべき? インバウンドで増えるK-POP…

  • 7

    ワニが16歳少年を襲い殺害...遺体発見の「おぞましい…

  • 8

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負け…

  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 4

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 5

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 6

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 9

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 10

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 9

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 10

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story