コラム

記憶喪失を引き起こす奇病が蔓延する世界......『林檎とポラロイド』

2022年03月10日(木)15時28分

ニク監督は、冒頭から私たちをこの世界に引き込むだけでなく、主人公の特殊な立場まで巧みに描き出している。そこで、この主人公に対して、ふたつの関心が生まれる。ひとつはもちろん、彼がプログラムに参加し、新しい自分を作り上げることで、果たして苦悩から解放されるのかどうか、ということだ。もうひとつは、特殊な立場にあるため、彼が目の前で起きていることの観察者にもなるということだ。

プログラムが患者の社会復帰を支援するものであるならば、他者との関係を築くことが重要になる。確かに、患者に与えられるミッションは、「自転車に乗る」という簡単なものから、「仮装パーティで友達を作る」や「酒を飲み、踊っている女を探す」へと進み、新たな関係を促している。

ところが、次第に他者への思いやりを欠いた自己中心的な行動を要求するミッションが目立つようになる。プログラムを担当する医師たちの態度もどこか横柄になり、患者の経験の内容には無関心で、ポラロイドを貼ったアルバムで結果だけを確認して満足しているように見える。もしかするとこれはディストピアなのかとも思えてくる。

主人公は、同じプログラムに参加する女と出会い、親しくなっていくが、彼女はポラロイドをためることを優先し、場合によっては主人公を利用しても抵抗を覚えたりしない。そこには、ブログやSNSのために、経験や記憶することよりも、写真を撮って公開することが目的になってしまうような現実に対する皮肉が込められている。

記憶とアイデンティティの関係を鋭く掘り下げる

ミッションに疑問を持った主人公は、"古い自分"と向き合わなければならなくなるが、そこで思い出されるのが、『トゥルーマン・ショー』だ。プレスによれば、ニク監督が映画監督を志すきっかけになった作品でもあり、先の引用も含め本作に影響を及ぼしている。

『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンは、景観に恵まれたサバービアに妻と暮らす営業マンだが、実は彼が住む世界は巨大なドームに作られたセットで、彼は生まれたときから知らないままテレビ番組の主人公を演じつづけ、お茶の間のスターになっている。そんな設定が説得力を持つのは、郊外の生活とホームドラマや広告に描かれた世界で暮らしたいという願望が深く結びついていたからだ。

ドラマや広告は作りものであって、実際には幸せとは限らないが、トゥルーマンはそれを現実として生き、視聴者もその世界に逃避し、共感を覚えている。だが、彼が自分の世界に疑問を持ち、なんとか町を出ようとするとき、視聴者の感情や心理も変化し、幸福の神話が崩壊し、彼に声援を送るようになる。

設定やテーマはまったく違うが、ある苦悩から逃れるために新しい自分を作ろうとする主人公の内面の変化は、トゥルーマンや視聴者を想起させる。ニク監督は、寓話的な物語を通して情報過多の時代に考察を加え、記憶とアイデンティティの関係を鋭く掘り下げている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ナワリヌイ氏殺害、プーチン氏は命じず 米当局分析=

ビジネス

アングル:最高値のビットコイン、環境負荷論争も白熱

ビジネス

決算に厳しい目、FOMCは無風か=今週の米株式市場

ビジネス

中国工業部門企業利益、1─3月は4.3%増に鈍化 
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    日本マンガ、なぜか北米で爆売れ中...背景に「コロナ」「ゲーム」「へのへのもへじ」

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 5

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を…

  • 6

    目の前の子の「お尻」に...! 真剣なバレエの練習中…

  • 7

    19世紀イタリア、全世界を巻き込んだ論争『エドガル…

  • 8

    走行中なのに運転手を殴打、バスは建物に衝突...衝撃…

  • 9

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 10

    ロシア軍「Mi8ヘリコプター」にウクライナ軍HIMARSが…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 6

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 7

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 8

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 9

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 10

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の瞬間映像をウクライナ軍が公開...ドネツク州で激戦続く

  • 3

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈する動画...「吹き飛ばされた」と遺族(ロシア報道)

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 6

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 10

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story