コラム

女性脱北ブローカーの数奇な運命を追ったドキュメンタリー『マダム・ベー』

2017年06月09日(金)15時00分

これに対して、韓国で共同生活を始めたマダム・ベーと北朝鮮の夫、息子たちの間には、どこかよそよそしい空気が漂っている。会話も弾まない。清掃の仕事をするマダム・ベーには生気が感じられず、ふさぎ込んでいるように見える。その原因は、彼らが長い間、離れ離れになっていたからだけではない。

脱北者を装った北のスパイ、という事件が背景に...

もっと重要な原因が他にあるが、そこに話を進めるまえに、映画では言及されないある出来事を頭に入れておいてもよいだろう。この映画は、2013年2月にマダム・ベーがブローカーとして、ある脱北者を韓国に送り出す場面から始まるが、同じ年の1月に韓国では、ソウル市職員が国家保安法違反の罪に問われ、国家情報院に連行される事件が起こっていた。彼は、脱北者を装った北のスパイで、韓国在住の脱北者の情報を北朝鮮に渡したとされた。ところが後に、彼が一緒に暮らすために韓国に呼び寄せた妹の証言が不当な取り調べで得られたものであることや、出入国管理記録が捏造であることが明らかになった。

さらに、この事件に関連して、今年の1月に公開されたキム・ギドク監督の『The NET 網に囚われた男』(16)のことも思い出しておきたい。なぜなら、このスパイ事件にインスパイアされているように思えるからだ。

この映画では、北朝鮮の漁師がいつものように漁に出たものの、ボートが故障して韓国に流されてしまう。韓国の当局に拘束された彼は、スパイ容疑で情け容赦ない取り調べを受ける。そして、ようやく解放され、北に戻れたと思ったら、今度は二重スパイ扱いされる。キム・ギドクはそんな物語を通して、分断が生み出す歪んだ力が、ひとりの人間をどのように押し潰していくのかを描き出している。主人公は家族のもとに帰っても、もう以前のような関係を取り戻すことはできないのだ。

但し、この映画の場合は、着眼点や狙いは素晴らしいが、作り込みすぎているためにドラマがいささか図式的になってしまっている。これに対して、『マダム・ベー〜』にも共通する狙いがあり、しかも成功を収めている。ユン・ジェホ監督は、キム・ギドクが執拗に描いたものを大胆に省略し、私たちに想像させる。

分断が生み出す歪んだ力に押し潰される家族

韓国に生きるマダム・ベーの胸にわだかまりがあることは、中国の夫が相手と思われる電話の会話から察せられる。彼女は、非保護対象と認定され、家が与えられないため息子のところに居候している。しかし、家がなくても生きられるが、それよりも悔しい思いを晴らしたい。彼女は電話でそんなことを語る。

この映画では、彼女がそれ以上のことを語る場面はないが、それが何を意味するのかは前後の映像から推測できる。この電話の場面の少し前では、彼女の息子が「母が中国で麻薬をさばいていたとか、北と連絡をとりあっていたとか、スパイ容疑をかけられた」と語っている。電話の場面の直後には、地下鉄の車内モニターに、スパイや麻薬密売人を通報するように呼びかけるメッセージが流れる。

しかし、彼女が悔しく思っているのは、自分に対する仕打ちだけではない。この映画の冒頭では、映像が映し出される前に、こんなモノローグが流れる。「母さんがこんなで苦労かけるね、あの人たちの言うことは信じないで、何を言われても信じちゃいけない、あなたが濡れ衣を着せられたら、それは私のせい、私のこと、悪く言ってもいいから、許してちょうだい」

つまり、韓国で再会はしたものの、一家がみな、分断が生み出す歪んだ力に押し潰され、もはや昔のような関係を築けなくなっている。特に、これまで苦難の道程を歩んできたマダム・ベーには、もはや韓国で生きる意味がなにもなくなっている。たとえ望まない結婚から生まれた関係であっても、中国の家族の方がはるかに人間的で、そこに温もりがある。この映画で浮き彫りにされるふたつの家族のコントラストには、分断の現実に対する痛烈な批判が込められている。

《参照文献》
『生きるための選択』パク・ヨンミ 満園真木訳(辰巳出版、2015年)
『7つの名前を持つ少女 ある脱北者の物語』イ・ヒョンソ 夏目大訳(大和書房、2016年)


『マダム・べー ある脱北ブローカーの告白』
(C)Zorba Production, Su:m
公開:6月10日、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

イスラエル軍、ラファ地上作戦控え空爆強化

ビジネス

英消費者信頼感、4月は2年ぶり高水準回復 家計の楽

ワールド

中国、有人宇宙船打ち上げ 飛行士3人が半年滞在へ

ビジネス

米サステナブルファンド、1─3月は過去最大の資金流
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された米女優、「過激衣装」写真での切り返しに称賛集まる

  • 3

    中国の最新鋭ステルス爆撃機H20は「恐れるに足らず」──米国防総省

  • 4

    今だからこそ観るべき? インバウンドで増えるK-POP…

  • 5

    未婚中高年男性の死亡率は、既婚男性の2.8倍も高い

  • 6

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 7

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    「鳥山明ワールド」は永遠に...世界を魅了した漫画家…

  • 10

    心を穏やかに保つ禅の教え 「世界が尊敬する日本人100…

  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 3

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた「身体改造」の実態...出土した「遺骨」で初の発見

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 6

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 10

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の瞬間映像をウクライナ軍が公開...ドネツク州で激戦続く

  • 4

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 5

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 6

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこ…

  • 7

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 8

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 9

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 10

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story