コラム

健全財政という危険な観念

2017年06月26日(月)17時50分

おそらく、これから日本経済のデフレ・ギャップが順調に縮小し続け、完全失業率がさらに低下して完全雇用に近づけば、国債金利も徐々に上昇し始めることになるであろう。それは、マクロ経済政策の本来的な目標が達成されつつあることを示しているという意味では、基本的にはきわめて喜ばしいことである。

ところが、健全財政派の論者たちは、「国債金利の急上昇や国債暴落というリスクが高まるのは、まさしく政策目標が達成されたこの出口においてであり、だからこそ金利上昇が始まる前のできるだけ早いうちに増税などによって財政再建を行うべきだ」と主張する。その考え方は、どれだけ正しいのであろうか。

確かに、デフレ・ギャップが消えた後に、インフレ・ギャップが急速に拡大し続ける状況が続けば、物価や賃金の上昇ペースが速まり、急速な金利上昇が生じる可能性はある。事実、そのような「インフレ・スパイラル」は、1980年代前半までの世界経済では、決して珍しいことではなかった。

しかしここで考慮すべきは、少なくとも2000年代以降の世界経済では、インフレの加速や金利の急上昇のような現象は、景気拡大期においてさえまったく起きてこなかったという事実である。FRB理事時代のベン・バーナンキが、2005年の講演「世界的貯蓄過剰とアメリカの経常収支赤字」で論じていたように、そこで生じていたのはむしろ、それとは逆の現象であった。

バーナンキがこの世界的貯蓄過剰(The Global Saving Glut)という問題提起を行った2005年とは、アメリカのサブプライム住宅バブルがまさにそのピークに達しようとしていた時期であった。しかし、そのような景気拡大期においてさえ、アメリカの長期国債金利は、4%前後という、当時としては歴史的に低い水準に保たれていた。バーナンキは、それを可能にしたのは中国に代表される新興諸国の貯蓄過剰であり、それが国際資本移動という形でアメリカへ流入したことによるものであることを指摘したのである。

この時期のFRB議長アラン・グリーンスパンは、退任後に著した自伝の中で、2004年頃からFRBが政策金利を引き上げ始めたにもかかわらず長期金利が低いままに推移した異例の事態を改めて振り返り、それをコナンドラム(謎)と名付けている。バーナンキが2005年に提起した上の世界的貯蓄過剰仮説は、FRB議長としての彼の前任者が在任中にFRB内部で問題提起していたはずのこの「謎」に対する「謎解き」でもあった。

この世界的貯蓄過剰問題は、アメリカのサブプライム・バブルという狂騒の中で、いったんは解消されたかに思われた。しかしそれは、リーマン・ショック後の世界大不況の中で、再びより深刻な形で表面化した。というのは、ローレンス・サマーズがその「長期停滞論」によって問題提起したように、リーマン・ショックから既に10年近くが経過しているにもかかわらず、多くの先進諸国では、物価や賃金や金利の伸びはきわめて弱々しく、景気過熱やインフレを懸念するには程遠い状況が続いているからである。

拙速な緊縮は致命的な結果をもたらす

今後の日本経済あるいは世界経済において、デフレ・ギャップがなかなか解消されないリスクと、インフレ・ギャップが拡大していくリスクのどちらが大きいかを問えば、それはどう考えても圧倒的に前者である。世界的な供給能力は今後、AI等による技術革新や既存技術のグローバルな移転によって、確実に拡大していく。他方で、医療技術の進歩による人々の寿命の伸びは、人々の貯蓄選好をより強めるように作用する。また、それによる将来的な人口構成の高齢化は、予備的貯蓄の必要性を高めることから、マクロ経済全体の貯蓄率をより高めることに帰結する。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

岸田首相、「グローバルサウスと連携」 外遊の成果強

ビジネス

アングル:閑古鳥鳴く香港の商店、観光客減と本土への

ビジネス

アングル:中国減速、高級大手は内製化 岐路に立つイ

ワールド

米、原発燃料で「脱ロシア依存」 国内生産体制整備へ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 2

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS攻撃「直撃の瞬間」映像をウクライナ側が公開

  • 3

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を受け、炎上・爆発するロシア軍T-90M戦車...映像を公開

  • 4

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 5

    こ、この顔は...コートニー・カーダシアンの息子、元…

  • 6

    サプリ常用は要注意、健康的な睡眠を助ける「就寝前…

  • 7

    ロシア軍「Mi8ヘリコプター」にウクライナ軍HIMARSが…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 10

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 3

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる4択クイズ

  • 4

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 5

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 6

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 7

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 10

    メーガン妃の「限定いちごジャム」を贈られた「問題…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story