コラム

初来日から32年目の「本名宣言」

2010年07月28日(水)13時45分

今週のコラムニスト:クォン・ヨンソク

 僕は、人生の半分以上を日本で過ごしてきた特殊な外国人だが、実はいまだに「正確な」本名を名乗ってこなかった。だが、今回NHK出版より拙著を公刊することを契機に、「本名」を名乗ることを決心した。初来日から32年目の本名宣言だ。

 もちろん、「本名宣言」といっても通名を名乗ってきたわけではない。名字の発音の表記を変えるというものだ。だが、この小さな違いが実は日韓関係における大きな変化を象徴しているともいえる。

 私の名前はクォン・ヨンソクである。だが、これまではコン・ヨンソクと名乗ってきた。今までの私の著作名はすべてコンになっているし、大学でもコン先生で通じている。だが、僕は今日からクォン・ヨンソクと名乗ることを宣言する。

 本名(韓国名)は「권용석」で、名字は「権」。正確な読み方は「クォン(KWON)」で、韓流スターのクォン・サンウと同じ名字。人気歌手のBoAも実はクォンさんだ。

 自分でいうのもなんだが、「権」は韓国では由緒ある名字の一つだ。世界遺産にも登録された河回村(ハフェマウル)のある安東を本貫に持ち、「安東権氏(アンドンクォンシ)」は両班の代名詞の一つにもなってきた。

 だが初来日以降は、父の決定により「ごん・よんそく」と名乗っていた。まだ日本における韓国の存在感が著しく低かった時代、日本人に発音の難しい「クォン」で呼んでいただくなんておこがましい、発音しやすい「ごん」でいい、「権藤」や「権化」という名字や言葉もあるではないか。おそらくこのような理由だったのだろう。創氏改名の歴史があるだけに、「ケン」と日本語読みにするのは屈辱的に思え、妥協の産物が「ごん」だった。

 おかげで僕は友人たちから、「ごんぎつね」、「はじめ人間ごごんごん」、「ごんじぃ」、「タンスにゴン」などと呼ばれた。

■仁川を「じんせん」と呼ぶ都知事

「ごん」はどうもイケてないということで、僕は大学3年に「コン」に「改名」した(今でも古い友人は僕を「ごん君」と呼んでいる)。それでもやはり、「クォン」の壁は高かった。「コン」なら日本にも「今」、「紺」、「昆」という名字もあるので親しみやすい。「コン」は韓国人色を希釈化し、日本社会に溶け込みやすくしてくれると判断したのだ。少し大げさにいえばそれは、日本より下位にあるという認識を内面化した(あるいはさせられた)韓国人の自主規制の産物であり、日本社会で生き抜く術でもあったのだ。

 だが、時代は進歩した。韓流スターは普通にクォンと名乗るようになったし、コン・ユや、コン・ヒョジンなど、「孔(コン)」という名字のスターも紹介されるようになった。誤解されないためにも正す必要があると思われたし、もう自分の名前を「ごん」や「コン」など、日本人に紛れるような中途半端な表記にしなくてもいい時代になったのだ。

 というわけで、これからは権容奭という漢字名も捨て、「クォン・ヨンソク」というカタカナ名で生きようと思う。それには大きく二つの理由がある。

 第一は、容奭の「奭」の字が珍しい漢字であるため、いろいろと不便が多かったことだ。よく、「容爽」に間違えられ、いつのまにか「ヨンソウ」と呼ばれていた。容姿が爽やかという意味になり、そう悪くはないので放置してきた。

 第二の点が重要なのだが、それはあえて漢字名を使わないことで、本名どおりの発音で認識されるということだ。名前というのはアイデンティティおよび他者認識と直結する極めてデリケートな問題だ。

 日本、朝鮮半島、中国(台湾)は、基本的に漢字の名前や地名をもっている。従って、「外国=他者」という意識が希薄で、つい漢字名を自国の読み方で読む傾向が強かった。それは文化的近似性や親近感を認識させるという側面もある一方、相手に対するリスペクトの念を抱きにくく、自国中心主義に陥る危険性もはらんでいる。日中韓の相互認識において、この点は実は極めて重要なのでないかと思っている。

 例えば、日本で帝国主義あるいは植民地主義的意識を捨てきれない人たちの中には、いまだにあえて、中国を「シナ」と呼んだり、金大中を「きんだいちゅう」、金正日を「きんしょうじつ」と読んだり、ソウルを「京城(けいじょう)」と呼ぶ人もいる。石原慎太郎東京都知事は公式会見でも、いまだに国際空港のある仁川(インチョン)のことを「じんせん」と呼んでいる。

■カタカナが日本の国際化を後押しする

 80年代までの韓国でも同様だった。日本から帰国した当初、学校の歴史教育で「プンシンスギル(豊臣秀吉)」、「トクチョンカガン(徳川家康)」、「イドゥンパンムン(伊藤博文)」などといわれ、ちんぷんかんぷんだった覚えがある。

 90年代以降、日韓の間では互いに本名の読み方を私用することが公式のルールになっている。だが、中国人はいまだに日本式で読まれている。中国の国家主席を「コキントウ」と覚えても世界では通用しない。

 同じ漢字圏だからといって甘えはよくない。相手に対する尊重の念を持つためにも、アイデンティティに直結する名前の呼び方については、もっと気を配る姿勢が必要なのではないだろか?

 それに、カタカナ名にこだわる理由もある。日本語のように二つの「仮名」をもっている言語は世界でも珍しい。外国人にとっては覚えるのが大変かもしれないが、これは極めてユニークで面白く、デザインの観点からもクールだ。

 カタカナは近代における西洋化、欧米化への対応の産物だったのだろうが、これからの時代は国際化、グローバル化への対応として、日本社会を変革しうる動力になるのではないかと思える。

 私の場合、「クォン・ヨンソク」という新しい名前は、「権容奭」という中華文明からの自立、「권용석」というナショナリティの相対化、「コン・ヨンソク」という対日従属からの脱却を促し、新たなアイデンティティを与えてくれるような予感がある。それは19世紀までの中華文明と、20世紀におけるナショナリズムと対日コンプレックスの歴史を超えて、21世紀にふさわしい名前であると思えてくるのだ。

 最後に、自分の本を宣伝するようでなんだか恐縮なのだが、今週から全国の書店に並んでいる拙著は、「ごん・よんそく」だった一人の少年が、「コン・ヨンソウ」になり、「クォン・ヨンソク」になれた成長の物語でもある。一人でも多くの日本の方に読んでいただきたいとの思いで読みやすさと面白さを意識して書いたつもりだ。猛暑が続いているが、涼しいカフェなどで一読いただければ幸いである。

プロフィール

東京に住む外国人によるリレーコラム

・マーティ・フリードマン(ミュージシャン)
・マイケル・プロンコ(明治学院大学教授)
・李小牧(歌舞伎町案内人)
・クォン・ヨンソク(一橋大学准教授)
・レジス・アルノー(仏フィガロ紙記者)
・ジャレド・ブレイタマン(デザイン人類学者)
・アズビー・ブラウン(金沢工業大学准教授)
・コリン・ジョイス(フリージャーナリスト)
・ジェームズ・ファーラー(上智大学教授)

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、退職年金にプライベート市場投資促す大統

ビジネス

物価目標2年で実現できず、異次元緩和に懐疑論=15

ワールド

ロサンゼルスから州兵半数撤収へ、移民摘発巡る抗議デ

ワールド

米、小国向け関税通知を近く送付 税率10%強の可能
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パスタの食べ方」に批判殺到、SNSで動画が大炎上
  • 2
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長だけ追い求め「失われた数百年」到来か?
  • 3
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」だった...異臭の正体にネット衝撃
  • 4
    「このお菓子、子どもに本当に大丈夫?」──食品添加…
  • 5
    真っ赤に染まった夜空...ロシア軍の「ドローン700機…
  • 6
    約3万人のオーディションで抜擢...ドラマ版『ハリー…
  • 7
    「史上最も高価な昼寝」ウィンブルドン屈指の熱戦中…
  • 8
    アメリカで「地熱発電革命」が起きている...来年夏に…
  • 9
    「巨大なヘラジカ」が車と衝突し死亡、側溝に「遺さ…
  • 10
    「オーバーツーリズムは存在しない」──星野リゾート…
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首」に予想外のものが...救出劇が話題
  • 4
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 5
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    イギリスの鉄道、東京メトロが運営したらどうなる?
  • 8
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「…
  • 9
    エリザベス女王が「うまくいっていない」と心配して…
  • 10
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パス…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story