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「おじいちゃん、明日までもたない」手話で伝える僕の指先を母はじっと見つめていた

2020年11月6日(金)17時00分
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

病室の一族

「ここがおじいちゃんの部屋」

佐知子が立ち止まった個室のなかからは、シューッシューッという奇妙な機械音と、控えめな話し声が聞こえてきた。

祖父の病状についてはよく知らなかったけれど、「個室に運び込まれた」という事実が諦念を誘う。

ゆっくり扉を開けると、集まっていた家族や親族が声をあげて迎え入れてくれた。

「わざわざよく来たね」
「大ちゃん、ありがとうね」
「ほら、荷物そこに置きなさい」

けれど、ぼくは一人ひとりに挨拶を返すことも忘れ、呆然と立ち尽くしていた。
目の前のベッドに横たわっていたのは、見知らぬ老人だった。

いくつもの細長いチューブにつながれ、口元を覆うように呼吸器がつけられている。土気色になった顔は骨と皮だけで、だらしなく開いた口から舌だけを出し、時折、それを苦しそうに動かす。元気な頃の面影はどこにもなく、定期的に痙攣(けいれん)するように体を動かす老人は壊れた玩具のようで不気味だった。

「おじいちゃんに挨拶したら」

佐知子にそう言われるまで、目の前にある、朽ちかけた流木のような老人が祖父だなんて信じることができなかった。毎晩、泥酔するまで酒を飲み、ときには暴れることもあった祖父は、もうどこにもいなかった。

途端に心細くなり、あらためて周囲を見回す。

ベッドサイドには二番目の伯母である由美と、夫の康文、娘の仁美が座っている。そして部屋の隅にはぼくの両親と祖母、佐知子の娘である舞と茜の姿。誰も彼もが憔悴しきっていた。

「おじいちゃん、大ちゃんが来てくれたよ」

由美が祖父に猫なで声で話しかける。けれど、どう見ても、その声は祖父に届いていないようだった。祖父は体をくねらせるようにもがいては、舌を出している。ただひたすらに苦しそうだ。

正直、見ていられない。

「大ちゃん、おじいちゃんに話しかけてあげて」

どうしたらいいのかわからず、突っ立っていたぼくに、由美が声をかける。もともと看護師をしていた由美は、疲れ切っていたものの、誰よりも毅然としているように見えた。アイロンのかかったシャツを着て、背もたれにはもたれずシャンとしていた。隣にいる康文も勤務先からそのまま来たのだろう、ジャケットにネクタイを締めている。

隙がない彼らを見ていると、少しだけ息苦しくなる。

「ほら、大ちゃん」

逡巡した後、そっと祖父に近づいた。横から見下ろす祖父は、想像以上に小さくなっていた。あんなに恰幅がよかったのに、干からびてしまったみたいだ。

なにか言おうと思っても、言葉が出てこなかった。そもそも、もう聞こえてすらいないだろうに、ここで声をかけることに意味があるのだろうか。まるで茶番劇みたいじゃないか。

ぼくは黙ったまま祖父の手を握った。
ひどく冷たく、乾燥していた。

こうして祖父と手をつなぐのは初めてだった。最初で最後に知った祖父の体温の冷たさに、ぼくはますます言葉を失うばかりだった。

いたたまれず、すぐさま祖父の手を離した。

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