最新記事

日本

文部省教科書『民主主義』と尾高朝雄

2017年9月13日(水)18時44分
苅部 直(東京大学法学部教授)※アステイオン86より転載

 こうして見ると、『民主主義』の叙述を貫いている政治哲学は、その編纂の直前に尾高が著書『国民主権と天皇制』(一九四七年)で展開した、いわゆる「ノモス主権論」と共通していることがわかる。この著書の第二章で尾高は、いかなる権力も従わなければいけない「法の根本理念」があると説き、「法の上にある力」としての「主権」のイメージを批判した。尾高の考えでは、アリストテレスが人間の最高至上の目的としても「エウダイモニア」(福祉)と規定したような、「正義」こそが政治の守るべき根本の規範である。そうした「ノモス」をこそ、「法の理念としての主権」と見なすべきだと提案した。

 これは、そもそも「主権」の概念自体を否定する理論と解するのが適切であったが、この「ノモス」についても「主権」と呼んでしまったことが災いしたのだろう。憲法学者、宮澤俊義から、日本国憲法制定による「君主主権」から「国民主権」への転換を曖昧にするものだという批判を受け、現行憲法をめぐる論争史においては尾高の敗北と位置づけられる結果に終わった。

 だが、たとえ国民の大多数が支持し、喝采を送る政治権力であっても、それが具体的な人間の意志が行使する力である以上、「正義」をふみにじることは許されない。そうした尾高と『民主主義』の洞察は、むしろ二十一世紀の現代になって、ますます重要な意義を持っているように思われる。現在は安全保障問題から皇室制度に至るまで、広い意味での憲法秩序をめぐる議論が活発になりつつある。そのさいに七十年前の言説を読み直し、そこから有益な示唆をえるのも、また大事なことだろう。

苅部 直(Tadashi Karube)
1965年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。専門は日本政治思想史。著書に『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)、『丸山眞男』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、毎日書評賞)、『歴史という皮膚』(岩波書店)、『安部公房の都市』(講談社)など。

【参考記事】偽物の効用----「震災遺構」保存問題の周辺から

※当記事は「アステイオン86」からの転載記事です。
asteionlogo200.jpg




『アステイオン86』
 特集「権力としての民意」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス

【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガリニューアル!
 ご登録(無料)はこちらから=>>

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ブルガリアが来年1月ユーロ導入、換算レート決定 E

ワールド

中国、ドイツ軍機にレーザー照射 独外務省が非難

ワールド

ネパール・中国国境で洪水、数十人が行方不明 橋流出

ビジネス

台湾輸出額、2カ月連続で過去最高更新 米関税巡り需
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「ヒラリーに似すぎ」なトランプ像...ディズニー・ワールドの大統領人形が遂に「作り直し」に、比較写真にSNS爆笑
  • 2
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 3
    自由都市・香港から抗議の声が消えた...入港した中国空母「山東」を見る香港人の心情やいかに
  • 4
    トランプ、日本に25%の関税...交渉期限は8月1日まで…
  • 5
    犯罪者に狙われる家の「共通点」とは? 広域強盗事…
  • 6
    「けしからん」の応酬が参政党躍進の主因に? 既成…
  • 7
    【クイズ】世界で最も売上が高い「キャラクタービジ…
  • 8
    トランプ税制改革の「壊滅的影響」...富裕層への減税…
  • 9
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 10
    中国は台湾侵攻でロシアと連携する。習の一声でプー…
  • 1
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 2
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコに1400万人が注目
  • 3
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸せ映像に「それどころじゃない光景」が映り込んでしまう
  • 4
    【クイズ】「宗教を捨てる人」が最も多い宗教はどれ?
  • 5
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 6
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 7
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 8
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 9
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 10
    アリ駆除用の「毒餌」に、アリが意外な方法で「反抗…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 4
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 5
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 6
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 7
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 8
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 9
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 10
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中