コラム

君が代「口元チェック」の何が問題なのか?

2012年03月19日(月)11時38分

 さすがの大阪の橋下市長も「君が代不起立」問題への反応として、「君が代歌唱の口元チェック」などという行動が現実のものになるとは思っていなかったのではないでしょうか。いつもとは違って、レスポンスまでの時間には、躊躇や熟考があったというニュアンスが漂っています。

 そうは言っても、政治家として国政を視野に入れている市長としては、「前進あるのみ」という判断になったのでしょう。ところで、私は従前から、橋下氏のスタイルは、シンガポールの「創業者」であるリー・クワンユー元首相に近いと申し上げてきましたが、今回のエピソードは正にそうしたイメージに重なってきます。

 ですが「それでいいのか?」という答えは簡単に出ると思います。それは「ノー」です。

 まず、どうしてリー・クワンユーはシンガポールで「チューインガムの禁止」などの強権政治を続けているのかというと、亡くなった金大中(元韓国大統領)との対談での発言ですが、「アジア人は劣等であって民主主義は相応しくない」と言うのです。ちなみに金大中は「そんなことはない」と反論していたのですが、リー・クワンユーはあくまで「劣等であるアジア人」は自分のような「優秀なリーダーが善導しないとダメ」だというのです。

 私が橋下流をリー・クワンユーのスタイルに重ねているのは、こうした点なのですが、仮に百歩譲ってこのような「確信犯的な開発独裁」がシンガポールの発展に寄与したとしても、現在の日本の場合は当てはまらないと思います。

 独立当時のシンガポールは、誇りをかけて独立したというよりは、マレー連邦から離脱を余儀なくされる中での厳しい船出であったようです。そうした中で、商工業を興して「食べて行ける」ようにするためには、開発独裁は効果があったのだと思います。

 一方で、日本の場合はそうではありません。現在の日本が辛うじて「食べて行ける」のは、日本というブランドが高付加価値というイメージと信用を勝ち得ているからです。そのブランドイメージの背景には、日本という社会が多様性と自主性を認め、効率に加えて美学やライフスタイルという「付加価値」を消費もするし創造もしているという事実があるからです。

 感性の領域で評価される高級車市場で競争力を維持している自動車産業、メッセージ性と芸術性が高度に調和したコンテンツ産業やファッション、デザインの分野など、それぞれの経済効果だけでなく、全体の「日本ブランド」を支えているのは、そうした思想やライフスタイルの多様性であり、自主性と自発性から来る自然な説得力であるわけです。

 ただ、こうした点は橋下市長も分かって、その上で言っているのかもしれません。それは「底辺校の子供たちに『秩序の形成というのはプラスの価値なんだ』というメッセージを送らないと、彼等は社会の中に自分を見つけることができなくなる」ということです。これは、下手をすると、彼等を独立間もない貧しかった頃のシンガポールの人々の生活水準以下へ突き落とすという厳しい認識であり、我々はその点に関しては真剣に受け止めなくてはならないと思います。

 ですが、私はそれでも「口元チェック」は間違っていると思うのです。それは、複数の価値観の並立ということ、多様性の保証ということを「エリートの特権」とするような社会は腐敗するからですし、それ以前に成熟国家において貧困とモラルの混乱に放り出された若者を救うには、強権的な個の否定よりも「君のことも一人の人格として認める」というアプローチの方が効果的だと考えられるからです。

 ましてエリート層に対してすら「形式的な秩序への参加姿勢」が大事だと教えるばかりで、「原理原則そのものを一旦は疑うこと」を前提とした「クリティカル・シンキング=知的批判精神」は教えないというような教育では、グローバルな競争では負けるだけです。現在のグローバルな世界は、抽象概念と経済合理性が激しく葛藤する社会ですから、いわゆる「ノンポリ」というような価値判断をパスする人間を再生産してしまっては、本当に個々人も、日本も負けていくことになります。

 この点に関して言えば、昔から日本では、高度な付加価値創造の伝統は「反骨精神」とか「体制を反面教師にする」中から生まれてきたわけです。歌舞伎や浮世絵もそうですが、現在の製造業にしても「日の丸プロジェクト」の多くは失敗し、民間のパワーが経済を牽引しているわけです。ですから、「口元チェック」も典型的な反面教師になるのであれば、若い世代には逆説的な効果が期待できるという見方も可能でしょう。

 ですが、私はこれも違うと思います。残念ながら現在の日本には「大人が形式主義的に徹して反面教師になれば、若い世代が反骨精神で自発的に創造性や抽象概念の扱い方を勉強してくれる」などという経済的、時間的、心理的な余裕はないのです。ですから若い人にはストレートに「正しいこと」を教えなくてはならないのです。そして「口元チェック」というのは、普遍的な精神の自由の問題から見ても、国家などの帰属集団への自然な愛着を養うという観点から見ても、どう考えても「正しいこと」には反しています。

 その一方で、「不起立」の側の先生方にも申し上げておきたいのですが、皆さんの行動が若い世代に意外に支持されていないのは、若い世代が右傾化しているからではないと思います。皆さんの「私は国家より偉いんだ」という姿勢が「見たこともないような傲慢さ」として彼等の世代には嫌悪される一方で、同時に皆さんの行なっている教育の結果として、彼等が将来を保証されているかというとそうではない、その不安感からは「職業が保証されている」皆さんの世代が特権的に見えてしまうからだと思います。

 このまま「大変に偉そうな突っ張った姿勢」を見せていても、若い世代の共感は得られないでしょう。多様性ということの大切さだけではなく、若者の将来不安に真摯に向かい合うべきです。生きてゆくための必要なスキルを徹底して教えることなしに、自己中心的なヒロイズムに陶酔するように見える言動を繰り返していてはダメです。「いつか来た道」という皆さんの好むフレーズは「知識人が大衆の生活苦も将来不安も救えなかった歴史」だということと併せて申し上げておきたいと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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