コラム

北マケドニアの自然養蜂家の女性を追うドキュメンタリー『ハニーランド 永遠の谷』

2020年06月25日(木)18時30分

3年の歳月と400時間以上の撮影から生み出された信頼関係

本作の導入部では、ハティツェが、危険な断崖や廃墟の石壁にある蜂の巣から、蜂蜜や蜂の巣を採取する姿が映し出される。彼女は「半分は自分に、半分はあなたたちに」といって、常に半分を残す。蜂蜜は蜜蜂の食料であり、それを残すことで冬を越して春になると群れが大きくなる。

そんなハティツェの言葉は、まったく違うドラマが生まれることによって、はるかに重みが増す。突き刺さるといってもいい。養蜂を始めたフセインは、彼女の教えを守ることができない。その結果、バランスが崩れてしまうからだ。

このドラマで驚くのは、撮影クルーが、ハティツェの親子だけでなく、フセインの一家にも完全に溶け込んでいることだ。子供たちもカメラをまったく気にかけない。彼らが川で遊ぶうちに、妹が溺れかけ、兄が慌てて助ける場面なども記録されている。

フセインは妻や子供たちに無理な労働を強い、一家のなかで争いが起こる。そのフセインは、最初からハティツェの教えを無視するわけではない。彼の行動には、取引相手の男が影響を及ぼしている。その男は、先に子供たちにプレゼントをして、フセインが要求を断れなくなるような姑息な手を使う。そんな争いや駆け引きについては、撮影を拒まれてもおかしくはないように思える。

本作は3年の歳月と400時間以上の撮影から生み出された。そこには、すでに撮影に入ってから現れた一家との信頼関係を築き上げていく時間も含まれている。

監督コンビの感性がリアリズムとは異質な空間を切り拓いている

しかし、より重要なのは、監督コンビの感性が映像の隅々にまで反映され、独自の空間を切り拓いていることだろう。

リューボは映像作家というよりは環境保護主義者で、植物や動物に焦点をあてた短編ドキュメンタリーの製作に関わってきた。つまり、人間ではなく自然を相手にしてきた。これに対して、タマラは映画学校でドキュメンタリーを学び、社会的なテーマや人間に焦点をあててきた。本作ではそんなふたりの視点が絡み合い、蜜蜂がフセインの一家に防衛本能をむき出しにする様子や蜜蜂同士の間に起きる争いが浮き彫りにされている。

さらに、映像へのこだわりも見逃せない。本作は、自然光とハティツェが実際に使っているオイルランプや蝋燭の灯りだけで撮影されている。そして驚くのが、コンビがハティツェや母親が話す古代トルコ語の意味をまったくわからないまま撮影をつづけ、音のない映像だけを見て編集し、あとで会話の意味を確認したという事実だ。

本作では、そんなアプローチが、リアリズムとは異質な空間を切り拓いているように思える。ハティツェが蜂の巣のある断崖に向かう冒頭や、再び断崖を訪れた彼女が丘の上で犬と蜂蜜を分かち合う終盤の場面では、時代背景は完全にぼやける。

ロングの前掲書では、天然の蜂蜜採取は危険な仕事で、蜜蜂を理解すること、巣を守ろうと本能的に刺してくる蜜蜂にどう対処するかを知っておくことが重要だと指摘したあとで、以下のような記述がつづく。


「こういった情報は、普通はハチミツ採取を専門とする選ばれた一族や集団のなかで注意深く受け継がれてきた。ハチミツの採取は高度に専門的であり、人々から尊敬され、評価されてきた仕事──最古の文明にも記録が残っているほど価値のある仕事だったのだ」

タイムレスな空間に存在しているように見えるハティツェの姿には、そんな選ばれた人間を垣間見ることができる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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