コラム

イランを生きる男女の深層心理を炙り出すアカデミー受賞作『セールスマン』

2017年06月05日(月)18時15分

ファルハディに2度目のアカデミー外国語映画賞をもたらした新作『セールスマン』

<ベルリン国際映画祭で史上初の主要3部門での受賞を果たした『別離』など輝かしい経歴を持つ名匠、アスガー・ファルハディ監督の新作は、現代のイランを生きる男女の深層心理を炙り出す>

先日は、ジャファル・パナヒ監督の『人生タクシー』を取り上げた。そのパナヒとともにイランを代表する監督でありながら、パナヒとは対照的な地位を築き上げているのが、アスガー・ファルハディだ。

【参考記事】タクシー運転手に扮して、イラン社会の核心に迫った:『人生タクシー』

パナヒは、その作品が何度もイスラム文化指導省の検閲制度によって国内での上映を禁じられ、さらには政府に対する反体制的な活動を理由に、2010年から20年間の映画製作・海外旅行・マスコミとの接触禁止を命じられている。これに対してファルハディは、ほとんど妥協することなく検閲の制約を乗り越え、発表する作品が次々とメジャーな映画祭やアカデミー賞で受賞を果たしている。

ファルハディの作品は、基本的には家族の物語であり、どこを舞台にしても成り立つような普遍性を備えているように見える。しかしそこには、現代のイランを生きる男女の深層心理を炙り出そうとする鋭い視点と緻密な構成が巧妙に埋め込まれている。

たとえば、ベルリン映画祭で銀熊(監督)賞に輝いた『彼女が消えた浜辺』(09)はわかりやすい。この映画では、大学時代の友人たちが家族連れで避暑地を訪れ、週末を過ごす。その小旅行を仕切る女性セピデーは、子供が通う保育園の先生エリも招待していた。友人とその家族は初対面のエリに好印象を持ち、すんなりと受け入れる。しかしその翌日、彼女が姿を消してしまったとき、一同はエリという名前以外、彼女について何も知らなかったことに気づき、動揺が広がっていく。

イラン社会にある深い溝

そんな物語はどこを舞台にしても成り立つように思えるが、イラン社会を背景にすると特別な意味を持つ。まず注目したいのは、登場人物たちが中流階級であることだ。イランでは世俗的な中流階級とより信心深い下層階級の間に深い溝があることは、『人生タクシー』を取り上げたときに触れた。

その溝は、イラン・イスラム革命とイラン・イラク戦争の後、ラフサンジャーニーとハータミーというふたりの大統領の時代に広がりはじめたといえる。アメリカで活躍するイラン生まれの批評家ハミッド・ダバシの『イラン、背反する民の歴史』では、その変化が以下のようにまとめられている。


「かたや戦後の復興経済とそれに伴って生まれた、石油経済に支えられた見せかけの富に頼る中産階級を擁護し(一九八九〜九七年)、かたや同階級の社会的自由の確保を目指していた(一九九七〜二〇〇五年)――だがどちらも有権者の大多数に目を向けていなかった」

その大多数とは、都市部・農村部の厖大な下層民であり、この後、保守・強硬派のアフマディネジャド大統領が誕生する原動力になる。このダバシの文章は、中流階級が石油経済や優遇政策の産物であって、その実体が漠然としたものであることを示唆する。そして、アフマディネジャドの時代には当然、そんな中流の地位がさらに不安定なものになる。

『彼女が消えた浜辺』の登場人物たちは、ファッションなどからエリを自分たちと同類とみなし、受け入れる。しかし、それが勝手な思い込みである可能性が膨らんでいくとき、自分たちの価値観も揺らぎだす。最初は男女が対等で、むしろ女性の方が溌剌としているが、やがてイスラム的な男性性が露になり、夫たちは妻たちを厳しく責め、暴力すらふるうのだ。

そして、ファルハディに2度目のアカデミー外国語映画賞をもたらした新作『セールスマン』では、中流の男女の深層心理がさらに鋭く掘り下げられていく。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米国株式市場=S&P・ナスダックほぼ変わらず、トラ

ワールド

トランプ氏、ニューズ・コープやWSJ記者らを提訴 

ビジネス

IMF、世界経済見通し下振れリスク優勢 貿易摩擦が

ビジネス

NY外為市場=ドル対ユーロで軟調、円は参院選が重し
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    「細身パンツ」はもう古い...メンズファッションは「ゆったり系」がトレンドに
  • 3
    「想像を絶する」現場から救出された164匹のシュナウザーたち
  • 4
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が…
  • 5
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長…
  • 6
    「二次制裁」措置により「ロシアと取引継続なら大打…
  • 7
    「どの面下げて...?」ディズニーランドで遊ぶバンス…
  • 8
    ロシアの労働人口減少問題は、「お手上げ状態」と人…
  • 9
    「異常な出生率...」先進国なのになぜ? イスラエル…
  • 10
    アフリカ出身のフランス人歌手「アヤ・ナカムラ」が…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 3
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 4
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長…
  • 5
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    アメリカで「地熱発電革命」が起きている...来年夏に…
  • 8
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 9
    ネグレクトされ再び施設へ戻された14歳のチワワ、最…
  • 10
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パス…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 4
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測…
  • 5
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 6
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 9
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 10
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story