コラム

さらば李登輝、台湾に「静かなる革命」を起こした男

2020年08月01日(土)19時15分

中国歴代トップが屈した深謀遠慮

選挙実施によるもう1つの効果は、台湾における「中国性」を段階的に打ち消し、「台湾化」と呼ばれる現象を社会に広げた点にある。

大陸から渡ってきた国民党は台湾を反抗拠点とし、(植民地としての)「日本人」から「中国人」への民族転換を推し進めた。そこでは中国人教育が行われ、台湾を本土(故郷)と見なす台湾人の心情は抑え込まれた。そのフタを李登輝は台湾人が自分のリーダーを選ぶ社会へ変えることでこじ開け、日本でも中国でもない台湾化へ向けて社会を変貌させていった。

李登輝が賢明だったのは、これらの重大な変革を、数十年単位という時間軸で起こしたことにある。その進みようがあまりに静かで外部からは分かりにくかったため、台湾問題を「核心的利益」とする対岸の中国ですら、李登輝の思惑にうまく反応できず、もはや後戻りのできないほど「脱中国」が進んでしまった。

もし短期的で劇的な変化であれば、中国は放っておかず、国際社会も制止に動いただろう。だが、選挙を平和的に行うだけで人々の意識を徐々に変えていくことに、明確な介入の理由を見いだすことは難しい。それが、李登輝の企図した「静かなる革命」の本意であったと私は考える。

今日、「台湾は中国ではなく、自分たちは台湾人であり、中国人ではない」という台湾アイデンティティーが、台湾社会の支配的価値観になった。中国は李登輝を台湾独立の策謀者として「千古の罪人」と呼んでいる。だが江沢民から胡錦濤、習近平に至る中国の歴代トップが、日本教育を受けて自らを「22歳まで日本人だった」と称する農業経済の専門家の深謀遠慮に屈したことは明らかである。

見事な人生、見事な退場に万感の賛辞を

現職の蔡英文総統が李登輝の死去に対して寄せたコメントで「権威主義の反動と民主主義の理想のはざまで、台湾は静かなる革命を起こし、台湾を台湾人の台湾にしてくれた」と述べたのは、こうした経緯からすれば、非常に得心のいくものだった。

李登輝政治の両輪ともいえる民主化と台湾化によって、歴史上初めて、台湾本島と離島の島々を含んだ土地は「台湾」という共同体となった。台湾はなお国際的に未承認国家のままであるが、もはや「統一か独立か」という問題で国論を二分することはなくなり、「台湾としていかに生き残っていくか」に集中して向き合えるようになった。これは台湾内部の統一支持を広げて分断工作を進めたい中国にとって大きな痛手である。

2020年は台湾にとって大きな歴史的転換点となった。李登輝路線の担い手となった民進党が1月の総統選・立法委員選で圧勝。優れたリーダーシップと国民参加によって世界最高レベルの新型コロナウイルス抑え込みを実現させた。さらに李登輝の死去によって、台湾が真の意味でポスト李登輝の時代に入ったことが劇的に印象付けられた。

李登輝死去のニュースが流れた7月30日夜、台湾に関わる人々の間に形容し難い強い喪失感が共有された。それは、「台湾を台湾人の台湾」にしていく李登輝の時代が名実共に幕を閉じたからだ。

中台関係の駆け引きで李登輝は勝利を収めたが、今後の台湾を導く者が習近平の圧力をしのぎ切れるとは限らない。その意味で、2020年は台湾の新たな試練の始まりの年でもあるかもしれない。

ただ、まずは自らの変革の成功を見届けた上での97歳の大往生に対し、見事な人生、見事な退場であると、万感の賛辞を送りたい。

<本誌2020年8月11・18日合併号掲載>

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学・台湾師範大学に留学。1992年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学の後、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月からフリーに。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『謎の名画・清明上河図』(勉誠出版)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『チャイニーズ・ライフ』(訳書・上下巻、明石書店)『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社)『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』(明石書店)『故宮物語』(勉誠出版、2016年5月)『台湾とは何か』(ちくま新書、2016年5月)。

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